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2017年4月14日金曜日

「小さな喜び」を大切にできる能力 ーヘルマン・ヘッセの言葉からー

物事を何もかも完璧にすることはできないでしょう。1日は24時間しかないし、そのうち何時間かは必ず眠らなくてはいけません。自分の関わる全てのことを、自分が理想とする形で進めようとすると、どこかで無理が生じてくる。仕方がないから、様々な観点から、この件はこのくらいでおさめるのがベストであろう、と思われる「落としどころ」を見定めて、そこで手を打つことにする。その決定には自分の性質や価値観、それまでの経験などが映し出されていることと思います。

そうして、あることだけが極端にならないように、何かに無理が生じないように、かといって、それが怠惰や臆病にすり替わってしまわないように気を付けながら、うまくバランスを取っていく。それが人生というものではないでしょうか。

Brainpickingsの投稿に、ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)の文章が取り上げられていました。ヘルマン・ヘッセといえば、『車輪の下』が有名ですが、先に思い出すのは、中学校の教科書で読んだ短編『少年の日の思い出』の方でしょうか。Brainpickingsの記事の中で、ヘッセは物事に適度に取り組んで、毎日の生活に小さな喜びを見つけることの大切さについて語っています。

「Hermann Hesse」の画像検索結果
                            

”The ability to cherish the “little joy” is intimately connected with the habit of moderation. For this ability, originally natural to every man, presupposes certain things which in modern daily life have largely become obscured or lost, mainly a measure of cheerfulness, of love, and of poesy. These little joys … are so inconspicuous and scattered so liberally throughout our daily lives that the dull minds of countless workers hardly notice them. They are not outstanding, they are not advertised, they cost no money!”
「この『小さな喜び』を大切にできる力というのは、ものごとをほどほどにすることと深く関わっています。というのは、元来誰にでも普通に備わっているはずのこの力が前提としているのは、現代の日常生活では、ものすごく見えづらく、それどころか、損なわれてしまったような物事、ちょっとしたほがらかさとか愛情とか詩だからなのです。こういう数々の小さな喜びは、あまり目立たない上に、毎日の生活のあらゆる場面に、大いに散らばっているので、感覚の鈍っている多くの労働者は、ほとんど気づくことがないのです。目立たないし、知らされないし、お金もかからないのだから!」 
”Just try it once — a tree, or at least a considerable section of sky, is to be seen anywhere. It does not even have to be blue sky; in some way or another the light of the sun always makes itself felt. Accustom yourself every morning to look for a moment at the sky and suddenly you will be aware of the air around you, the scent of morning freshness that is bestowed on you between sleep and labor. You will find every day that the gable of every house has its own particular look, its own special lighting. Pay it some heed if you will have for the rest of the day a remnant of satisfaction and a touch of coexistence with nature. Gradually and without effort the eye trains itself to transmit many small delights, to contemplate nature and the city streets, to appreciate the inexhaustible fun of daily life. From there on to the fully trained artistic eye is the smaller half of the journey; the principal thing is the beginning, the opening of the eyes.”
「とにかく一度試してみてください。木とか、大きく広がる空などというものはどこにでも見ることができるものです。青空である必要もない。何らかの方法で、太陽の光はいつも、光そのものを感じさせてくれます。毎朝、少しの間、空を見る習慣をつくってください。すると、自分の周りにある空気に、眠りと仕事の合間に、朝の新鮮な香りが自分に与えられていることに、ふと気づくようになるでしょう。毎日、家という家の屋根がそれぞれに違った形をしていたり、独自の照明があるのに気付くでしょう。ちょっと注意してみてください。その日の残りが、何だか満ち足りていたり、自然と共にあることを感じられたりするのがわかるかもしれません。そのうち少しずつ、一生懸命にならなくても、目が鍛えられて、たくさんの小さな喜びを伝え、自然と街の通りについて考え、毎日の生活に尽きることのない楽しさを感じるようになるでしょう。今いるところから、十分に鍛えられた芸術家の目にたどりつくまでは、そう遠くない道のりです。大切なのは、始めることです。まず、目を開いてみることなのです。」
忙しくしていると、つい後回しにしてしまいがちですが、"Cheerfulness, love and poesy "(ちょっとしたほがらかさとか愛情とか詩) などというものは、本当に毎日の中で大切なものだと思います。現役世代で仕事が忙しい。フルタイムの仕事と育児や介護のかけもちをしている。皆それぞれに、心にも時間にも余裕はないものですが、それでも、人生のどの段階でも、それを手放してはいけないと思う。また、その大切さや意味をきちんと次世代に教えて、子ども達がちゃんと、"the fully trained artistic eye" (十分に鍛えられた芸術家の目)を持つようにしてあげる。そして、その大切さをお互いに保障し合うような社会にしようと努力するのが、大人の義務ではないかと思います。

The quoted part is from

"Hermann Hesse on Little Joys, Breaking the Trance of Busyness, and the Most Important Habit for Living with Presence" from brainpickings.

2016年12月4日日曜日

「すべての物語は真実である」-John Edgar Wideman(ジョン・エドガー・ワイドマン) の言葉から―

以前、沈む夕日と舞い降りる雪の意味-村上春樹の言葉から- という投稿で、人間はあらゆるもの事に、意味づけをせずにはいられない存在で、「出会う人、住んでいる場所、生まれながらの境遇、突然降りかかってくる出来事。心を開いて、発想を柔軟にして、そういった物事に一つ一つ意味を見いだして、自分という存在の意味をしっかりと受け止めてくれる物語を作っていく。そうやって、前に進んでいくしかないのではないか」と書きました。

そう考えると、私達にとって物語というものがどれだけ大切なものか、と思えてくるのですが、Paris ReviewのJohn Edgar Wideman(ジョン・エドガー・ワイドマン) のインタビューの記事の中で、こういうフレーズを目にしました。

       "All stories are true."

 実は、John Edgar Wideman(ジョン・エドガー・ワイドマン) という方についてはそれまで存じ上げていませんでした。確認してみると、ジョン・エドガー・ワイドマンはアメリカ人の作家で、ブラウン大学で教鞭も取っておられるようです。1991年にはPhiladelphia Fireでアメリカ図書賞などを受賞されており、他の作品も数々の文学賞の候補になるなどの活躍をされている方だということです。日本では3冊ほどの翻訳書が出版されているようです。



INTERVIEWER(インタビュアー)
"There’s a phrase that comes up in a lot of your books: “All stories are true.” What do you mean by that, and how does it relate to your work?"
(「あなたの本に何度も出てくるフレーズがありますね。「すべての物語は真実である」この言葉にはどういう意味が込められているのでしょう?そして、あなたの作品にどうかかわっているのでしょうか?」) 
WIDEMAN(ワイドマン)
"The source of that phrase is Chinua Achebe, and Achebe’s source is Igbo culture, traditional West African philosophy, religion, et cetera. It’s an Old World idea and it’s very mysterious. Rather than say I understand it, let’s say I’ve been writing under the star or the question mark of that proverb for a long time and I think it’s something that challenges. You peel one skin and there’s another skin underneath it—“all stories are true.” It was a useful means to point out that you don’t have a majority and a minority culture, you don’t have a black and a white culture—with one having some sort of privileged sense of history and the other a latecomer and inarticulate—you have human beings who are all engaged in a kind of never-ending struggle to make sense of their world. “All stories are true” then suggests a kind of ultimate democracy. It also suggests a kind of chaos. If you say, Wideman’s an idiot, and someone else says, No, he’s a genius, and all stories are true, then who is Wideman? It’s a challenge. A paradox. For me it’s the democratic aspect of it that’s so demanding, and it’s been a kind of guide for me in this sense. I know if I can capture certain voices I heard in Homewood—even though those people are not generally remembered, even though they never made a particular mark on the world—at certain times and in certain places and in certain tones those voices could tell us everything we need to know about being a human being."
(「このフレーズは、チヌア・アチェべの言葉から来てます。そして、アチェベはイボ文化、伝統的な西アフリカの哲学、宗教などから影響を受けているのです。それは、旧世界の思想で、とても神秘的なものです。それを理解したから、というよりも、ずっとその星の下で執筆を続けてきたから、とか、長い間このフレーズの謎を考えてきたから、と言いたいところです。それは、何かこちらにはたらきかけてくるような言葉だと思うのです。表面の皮をむいたら、その下にさらに皮があった、というような。 ―「すべての物語は真実である」― 多数派の文化、とか、少数派の文化などというものは無いし、黒人の文化とか、白人の文化などというものもない。 ―歴史の中で、一方が特権的な感覚を持つようになり、遅れてやってきたもう一方が、物を言えなくなっている― 皆、自分の世界に何とか意味を見出そうとして、終わりのない努力を続けている、そんな人間がいるだけなのだ。そういったことを取り上げるのに、そのフレーズは有効だったのです。それから、「すべての物語は真実である」という言葉には、究極の民主主義のようなものが感じられます。また、何か混沌としたものも。たとえば、ワイドマンなんて馬鹿だよ、とあなたが言ったとして、それに、誰かがいや彼は天才だよ、と言ったとする。そしてそのすべての物語が真実だということになれば、では、ワイドマンってどんなやつだ?ということになる。そういうはたらきかけです。逆説的なものです。私には、そういう風に厳しく迫って来ることこそが、この言葉の民主主義的な側面だと思えます。そういう意味で、この言葉は、私をこれまで導いてきてくれたのです。もし私がホームウッドで耳にする様々な声をとらえることができるなら、その声が、ある時、ある場所で、ある言い方で、私たちが1人の人間であるために必要な、あらゆることを教えてくれるとわかるのです。たとえ、その声の持ち主が、たいてい、忘れ去られてしまう人たちで、この世界に何か足跡を残すようなことはないとしても。」)
「すべての物語は真実である」・・・きっとそうなのでしょう。そうだと思わせる重みのあるフレーズだと思います。しかし、本当にこのフレーズは重い。たとえば、ある物語は真実で、ある物語はでたらめ、だとすると、嘘もあるけど真実もある、と信じられます。でも、すべての物語が真実であるとすると、それは同時にすべての物語はでたらめである、という「物語」も真実になってしまいます。まさにパラドックス。そう思うと、今まで真実だと思ってきた私自身の「物語」にも、不信感のようなものが生まれてきます。そして、この限られた人生に、いったいどんな意味を見出して生きていけばよいのか、わからなくなってくるような気がします。

真実かどうかなんて、結局問題ではないということでしょうか。その「物語」が自分の心にすとんと落ちる、とか、他のどの「物語」よりも美しいと思える、とか、そういうことでしか判断できない、ということなのでしょうか。「すべての物語は真実である」・・・・こういうことだ、と言えるようになるまで、随分時間のかかりそうなフレーズに出会ってしまいました。
The quoted part is from;
John Edgar Wideman, The Art of Fiction No. 171 in The Paris Review 

2016年10月30日日曜日

完璧な「集中」の充実感 ―ジェーン・ハーシュフィールドの言葉から―

小学生の頃の話です。2時間目と3時間目の授業の間には、少し長めの20分間の休憩の時間があり、その時間には皆、外に出てひとしきり体を動かして遊ぶことが常でした。入学してすぐの5月頃だったでしょうか。友達3人と外に出て、「渡り棒」か何かの遊具の周りで遊んでいたら、遊びに夢中になってしまって、休み時間が終わったことにまるで気づくことができませんでした。ふと見渡すと、グラウンド中にいた子供たちは一人もおらず、自分たち3人だけが取り残されていました。急いで教室に戻って謝って、先生の顔色を窺うと、先生などは慣れたもので、はいはい、という感じで、特に咎められることもなく、何事もなかったように授業に入っていきました。

その時のことを、折にふれ、思い出します。遊びに夢中になっていた私の意識(他の2人の友達も、おそらく)は、完璧な「集中」を経験していたのだと思うのです。大人になった今だったら、歓声をあげて走り回っていた100人からの子供たちが一斉に周囲から姿を消したことに、気づかないということができないはずです。夢中になって絵を描いたり、本や漫画に没頭したり、一心に蝶々やとんぼを追いかけたり、天井のしみや壁紙のパターンを目で追ったり。子ども時代の自分は、興味を引かれるままに、自分の行動や周囲の世界に、難なく入り込んでしまっていました。



"By concentration, I mean a particular state of awareness: penetrating, unified, and focused, yet also permeable and open. This quality of consciousness, though not easily put into words, is instantly recognizable. Aldous Huxley described it as the moment the doors of perception open; James Joyce called it epiphany. The experience of concentration may be quietly physical — a simple, unexpected sense of deep accord between yourself and everything. It may come as the harvest of long looking and leave us, as it did Wordsworth, a mind thought “too deep for tears.” Within action, it is felt as a grace state: time slows and extends, and a person’s every movement and decision seem to partake of perfection. Concentration can also be placed into things — it radiates undimmed from Vermeer’s paintings, from the small marble figure of a lyre-player from ancient Greece, from a Chinese three-footed bowl — and into musical notes, words, ideas. In the wholeheartedness of concentration, world and self begin to cohere. With that state comes an enlarging: of what may be known, what may be felt, what may be done." 
(私がここで言う「集中」というのは、ある特定の状態の意識のことです。はっきりと鋭く、1つにまとまって一点を見据えている。でも同時に透明で開かれてもいる。このような意識の状態というのは、言葉では説明しづらいものですが、すぐにそれだとわかります。オルダス・ハクスリーは、それを、「認知の扉が開く瞬間」と表し、ジェームズ・ジョイスは、「エピファニー(突然の悟り)」と呼んでいます。「集中」は、静かに起こる、でも、物理的な経験です。自分自身とすべてのものが、ただ思いがけず、深く結びつく感覚です。それは、ずっと長い間見つめてきたことに対する実り、という形でやってきて、そして、詩人のワーズワースの言葉と同じように、私たちに「涙も出ないほど奥深いところで(心が動く)」意識を残していくのかもしれません。行動している時には、それは、優美な状態として感じられます。時がゆったりと流れ、広がっていき、あらゆる動きと判断が完璧であるように思われるのです。「集中」はまた、物の中に起こることもある。フェルメールの絵画や、古代ギリシャの、竪琴を弾いている小さな大理石の人形、中国の3本あしのついた陶器、などからは、はっきりと伝わってくるし、音符や言語や思考に起こることもあります。「集中」して全身全霊をかけると、世界と自分とが一つになり始めます。そのような状態になると、理解されるはずのものも、感じられるはずのものも、なされるはずのものも、広がっていくのです。)
これは、Brainpickingで記事として取り上げられていた、詩人のJane Hirshfield(ジェーン・ハーシュフィールド)が「集中」について語った言葉です。

大人になると、自分の周りの状況に常に気を配るようになります。それができるようになるし、そうすることをまわりに期待されもする。それで、人とコミュニケーションを取ったり、物事を手際良く進めたりするのは、うまくできるようにはなるのですが、時々、あの子供のころの完璧な「集中」に思いを馳せてしまいます。世界と自分が一つになって、「現実」に自分の存在が無くなってしまうかのようなあの感じ・・・。今でもよほど好きなこととか、ものすごく体調が良い時とかには、似たような感じになることもあります。あらためて考えてみたこともありませんでしたが、実は、心の奥に潜んでいる「私」は、その状態を求めてやまず、何か全身全霊を注いでしまうものは無いか、常に探しているような気がします。依存症だとか、自分探しだとか、そういったことは、みな、子どもの頃の完璧な「集中」の充実感を求めてのことなのかもしれません。

The quoted part is from:
The Effortless Effort of Creativity: Jane Hirshfield on Storytelling, the Art of Concentration, and Difficulty as a Consecrating Force of Creative Attention
https://www.brainpickings.org/2016/07/21/jane-hirshfield-concentration/

Wordsworth, "Ode" ("Intimations of Immortality") 1807 ver. (日本語訳) in 冨樫 剛『English Poetry in Japanese』
http://blog.goo.ne.jp/gtgsh/e/eb279c4b2cf701ed4bb95109a5752fba


2016年4月18日月曜日

外国語の海を渡る―ジュンパ・ラヒリのインタビュ-から―


ジュンパ・ラヒリが、ニューヨーク公共図書館 NYPLのポッドキャストのインタビューで、外国語について語っているのを耳にしました。Jumpa Lahiri(ジュンパ・ラヒリ)はロンドン生まれ、アメリカ育ち、インド系アメリカ人の作家です。第一作目の短編集"Interpreter of Maladies "(『病気の通訳』、日本語版の本のタイトル『停電の夜に』は、別の短編、A Temporary Matter"から取られたもの)は、日本では新潮クレストブックからだけでなく、新潮文庫からも出版されており、この作品で、ピューリッツァー・フィクション賞を受賞しています。

彼女は40代になって、自分の(特に言語的な)アイデンティティについて疑問をもつようになり、イタリア語を学び、それだけでなく、イタリアに渡ってローマで生活することにしたそうで、このインタビューで、イタリア語を習得することについて述べています。
"In a sense, language is the most intimate relationship of ours lives, at least, I think, for me. That is not to say I don't love deeply people and have profound relationships with them. But I think language is so much more powerful than we are, so to have a relationship with language is a very profound thing. To seek another language is so powerful and so humbling."
(ある意味、言語は、私たちの人生で最も親密な「関わり」だと思います。少なくとも私にとっては。人を深く愛していないとか、彼らと心からの関わりを持っていないとか、言っているわけではありません。でも、私は思うのですが、言語というのは、我々人間よりももっとずっと力強いものなので、言語と関わりを持つのは、ものすごく深いことなのです。二つ目の言語を追うのは、とても影響力が強く、自分に足りないものに気づかされる経験です。)


ローマでのある日、友人の家族と小型船での船旅を楽しむことになった時に、随行してもらった船長さんに、こう言われたのだそうです。
“Well, there’s one thing you have to know which is we don’t belong here, we are human beings and we don’t belong on the water and it’s dangerous and it can kill us and it’s not where we’re supposed to be and you have to know this and you have to respect that and you have to respect the sea, because it’s so much powerful than we are, and it really doesn’t like us, and yet we love it and we’re going to sail and we’re going to have a great week,” and we did. You know, and he said it in a much more profound, beautiful way (laughter) than I am, but I was really struck by what he said because I think it’s true, and I immediately thought of my relationship to Italian and I thought, “That’s Italian for me, I’m sailing through this language and it’s dangerous and I don’t belong in it and yet it’s this sort of sublime experience for me.”
(「さて、1つ知っておいてもらわないといけないことなんですが、それは、ここは本来の居場所ではない、ということです。ここ水の上は、我々人間の生きる場所ではないんですよ。だから、危険だし、死んでしまうことだってある。ここはいるはずのところではない、ってことをよく知っておかなくてはならないし、また、それを重く受け止めておかなくてはならないんです。海に敬意を払わなくては。随分大きく力を持っている相手で、しかも、本当のところ、こっちは疎まれているんだから。でも、こっちは愛してやまないから、出帆するし、間違いなく素晴らしい1週間になるはずですよ。」その通りでした。船長は、私なんかよりももっとずっと深くて、美しい言い方でそう言ったのです。私はもう、その言葉に衝撃を受けてしまって。だって、本当にそうだと思ったんです。そして、すぐに、私とイタリア語のことを思いました。「それって、私にとってのイタリア語だ。私はこの言語の海を渡っているところなんだ。危険だし、そこが自分の居場所ではない。でも、同じように素晴らしい体験なんだ、と。」)
ジュンパ・ラヒリのような母語に対する不安は、いささかも感じたことはありませんが、それでも、私も言語の海を渡る人生を生きている。私の人生もそういう人生であるのだ、と感慨深く思います。もちろん彼女のようなスケールの大きな人生ではなく、私の人生は、地球の片隅で、そっと生きている小さな人生ではありますが、でも、外国語の海が、自分の本来の場所の外側で、命が奪われてもおかしくないような危険な領域であることに、変わりはないはず。そして・・・、「こっちは疎まれて」いたのか、やっぱり。なんだかそれも納得。どうりでなかなか習得できないわけだ。それはそれで仕方がない。でも、この海が、違った視点で見る目を与えてくれ、力強い美しい言葉で鼓舞してくれ、様々な出会いをもたらして、この小さな人生を豊かなものにしてくれているのは間違いない。言葉に関わる人生で本当によかった。これからも、外国語の海の大きさを決して忘れないよう、敬意を払いつつ、しっかりと生きていきたいと思います。

The quoted part is from; The New York Public Library.
Podcast #102: Jhumpa Lahiri on Language and Disorderby Tracy O'Neill, Social Media Curator http://www.nypl.org/blog/2016/03/08/podcast-jhumpa-lahiri

2015年10月18日日曜日

文体の翻訳 ―ウンベルト・エーコの言葉から―

文体には文章を書いた人特有のリズムがあって、本を読む楽しさはそのリズムに乗る楽しさだ、ということをこのブログでも何度か取り上げてきました。

 〇私と文章と音楽と
 〇トルーマン・カポーティと文体の話
 〇音楽と文体(2)~村上春樹の言葉から~
 〇音楽と文体(1)~マヤ・アンジェローの言葉から

今回はウンベルト・エーコです。The Paris Reviewのインタビューで、ウンベルト・エーコもやはり、同じように文体はリズムだと言っています。そして、その文体を翻訳するということについて語っています。
   
ECO
"I have edited countless translations, translated two works myself, and have had my own novels translated into dozens of languages. And I’ve found that every translation is a case of negotiation. If you sell something to me and I buy it, we negotiate—you’ll lose something, I’ll lose something, but at the end we’re both more or less satisfied. In translation, style is not so much lexicon, which can be translated by the Web site Altavista, but rhythm. Researchers have run tests on the frequency of words in Manzoni’s The Betrothed, the masterpiece of nineteenth-century Italian literature. Manzoni had an absolutely poor vocabulary, devised no innovative metaphors, and used the adjective good a frightening amount of times. But his style is outstanding, pure and simple. To translate it, as with all great translations, you need to bring out the anima of his world, its breath, its precise tempo."
エーコ
(「私はこれまでに数えきれないくらいの翻訳を編集してきたし、自分でも2本作品を翻訳しました。自分の小説は何十もの言語に翻訳されてもいます。それで思うのですが、翻訳というのは、要するに交渉ということですね。もしも、あなたが私に何かを売り、私がそれを買うとすると、私たちは交渉をすることになります。そうすると、あなたは何かを失うでしょう。私だってそうです。何かを失います。でも、最後には、どうあれ、どちらもが満足する。翻訳するにあたっては、文体というのは、語彙ということではない。そんなものだったら、アルタビスタの翻訳サイトでも翻訳できるかもしれない。そうではない、リズムなんです。マンゾーニの『婚約者』という19世紀のイタリア文学の傑作があるのですが、その語彙頻度について、研究者が調べたことがあるのです。マンゾーニの語彙力っていうのは、ものすごくひどかったんですね。新しいメタファーを作り出すこともなかったし、goodなんていう形容詞をおそろしく何度も使ってた。でも彼の文体はずば抜けていました。純粋で素朴で。そういうものの翻訳をするにあたっては、他の優れた翻訳同様に、マンゾーニの魂や、呼吸、その正確なテンポを訳しだす必要があるのです。」)
自分にとって、母語で書かれた文体のリズムに乗るのは、そう難しくなく楽しいものだと思います。ある作家のリズムには心惹かれるけれど、別の作家のリズムはどうもしっくりこない、などと思ったりします。しかし、長じて自分で学んで身につけた外国語で、同じことをするとなるとどうでしょうか。英語なら英語という、その言語特有のリズムはありますが、書き手によって微妙に変わる文体のリズムに耳を澄ませ、その違いを聴き分ける、といった繊細な行為を、外国語でするとなると、かなり高度な外国語能力が必要になってくるのではないでしょうか。さらにそのしらべを別の言語で再現するのは、これは、至難の業だといえると思います。また、翻訳家も人であれば、その人の持つ文体のリズムというのもあるでしょう。翻訳をするにあたっては、その自分のリズムが表にでてこないように、なりをひそめることも必要になりそうです。自分の存在を消すことができるように、自らコントロールするというのも、意外に難しいことのような気がします。そうして考えてみると、優れた翻訳家の言語能力、言葉や音に対するセンス、ってすごい。すごくて素晴らしい。
INTERVIEWER
"Does a good translator ever offer a suggestion that opens up possibilities you hadn’t seen in the original text?"
インタビュアー
(「良い翻訳家というのは、あなたが原文では思っていなかったような可能性の扉を開いてくれるような、そんな示唆をしてくれるのでは?」)
ECO
"Yes, it can happen. Again, the text is more intelligent than its author. Sometimes the text can suggest ideas that the author does not have in mind. The translator, in putting the text in another language, discovers those new ideas and reveals them to you."
エーコ
(「そうですね。ありうる話です。一度言いましたが、文章というのは、著者よりも賢いのです。時々、著者が思ってもみないような考えを提案してくれたりもします。翻訳家は原文を別の言語に変える中で、そういった新しい考えを見つけ出し、著者にそれを教えてくれるのです。」)
翻訳家がエーコが言うような役割を果たすのも、不思議ではないように思いました。
私もいつかその域に達して、自分の感覚にしっくりくる文体に出会って、その文体を翻訳してみたい。そうです。私は果てしなくロマンティストなんです。


The quoted part is from:

The Paris Review
Umberto Eco, The Art of Fiction No. 197 Interviewed by Lila Azam Zanganeh

2015年8月30日日曜日

規律(discipline) が窮地を救ってくれる-アンナ・ディーバー・スミス(Anna Deavere Smith)の言葉から-

つらい状況、というのが時として訪れてきますね?例えば、あり得ないミスをしでかしてしまう。人からの信用を無くしそうになる。批判を受ける。よかれと思ってやったことが裏目に出る。自分には無理だと思えることに取り組まなくてはならない。誰からの援助も受けられない。大切な人を失くしてしまう・・・。そんなつらい状況をどうやって乗り切りますか?

私の場合は、まずはとりあえず、深呼吸です。それから、いつもの動作をあえて丁寧にするようにします。文字を書く、とか、野菜を切る、とか、脱いだ洋服をたたむ、とかそういったことを、いつもよりも丁寧にする。そして、その段階で自分に許されていることをカウントします。あれもできる、これもできる、なんだ普通になんでもできるじゃないか、大丈夫!と自分で確認します。

村上春樹氏は、『村上さんのところ』の中で、読者からの「批判や中傷をどうやり過ごすか」という質問に対して、「・・・規則正しく生活し、規則正しく仕事をしていると、たいていのものごとはやり過ごすことができます。」と答えておられます。「・・・好かれても嫌われても、敬われても馬鹿にされても、規則正しさがすべてをうまく平準化していってくれます。(中略)朝は早起きして仕事をし、適度な運動をし、良い音楽を聴き、たくさん野菜を食べます。」ということです。

いつもお世話になっているブログ、Brain Pickings の中でも、女優のアンナ・ディーバー・スミス(Anna Deavere Smith)の著書からの言葉が紹介されていました。これは、アーティストとして生きる人へ贈るアドバイスをまとめた本なのだそうです。画家、作家、ミュージシャン、デザイナー、など、アーティストと呼ばれる方々の人生は、常にクリエイティビティを発揮することが求められ、そのことで生計をたてていくという人生は、おそらく大変厳しいものではないか、と想像します。もちろん、作品が完成して不特定多数の人々に受け入れられたときの歓びは、何ものにも代えられないものなのでしょうが。

     

"We are on the fringe, and we don’t get such licenses. There are prizes and rewards, popularity and good or bad press. But you have to be your own judge. That, in and of itself, takes discipline, and clarity, and objectivity. Given the fact that we are not “credentialed” by any institution that even pretends to be objective, it is harder to make our guild. True, some schools and universities give a degree for a course of study. But that’s a business transaction and ultimately not enough to make you an “artist.”"
(アーティストは違います。我々にはそんな免許なんかはない。賞やご褒美を受けたり、人気があったり、評価されたりはします。でも、良いか悪いかの判断は自分でしなくてはなりません。そのためには、本当の意味で、規律がなくてはならないし、明確さと客観性がなくてはなりません。せめてなんとか客観的であると装っている何かの団体があるとして、そういう団体からもお墨付きをもらうことはできません。その事実を考慮すると、組合を組織するということだってなおのこと難しい。確かに、ある種の学校や大学は、学べばそれに対して学位を与えています。でも、それは単なるビジネスの上の話であって、つきつめると、そのくらいのことで、誰かを「アーティスト」とみなすわけにはいきません。) 
"Be more than ready. Be present in your discipline. Remember your gift. Be grateful for your gift and treat it like a gift. Cherish it, take care of it, and pass it on. Use your time to bathe yourself in that gift. Move your hand across the canvas. Go to museums. Make this into an obsession…
What you are will show, ultimately. Start now, every day, becoming, in your actions, your regular actions, what you would like to become in the bigger scheme of things."
(準備を怠らないようにしてください。けじめを持って生きるのです。あなたには神から与えられた才能があることを思い出してください。その才能に感謝して、それを贈り物のように扱ってください。大切に、手をかけて後に伝えていくのです。あなたの人生を、その才能に浸ることに使ってください。キャンバスの上で実際に手を動かして。美術館に足を運んで。それが癖になるように。
最後には、あなたらしさが現れてくるでしょう。今すぐに始めてください。毎日そうするのです。そうして、いつもそうやっていると、より大きなスケールの中で、あなたが目指すものになれるはずです。)
規律(discipline) ということや規則正しい生活を丁寧にこなしていくことが、とにかく大切だという話、とてもよくわかる気がします。 つらい状況で、頭の中がそのことで一杯になって、気持ちが不安定になって、何だか浮き足立ってしまうような時に、淡々と続く毎日の生活のあれこれが、自分という存在を人生そのものにしっかりとつないでくれる碇(いかり)のような機能を果たしてくれるからなのかもしれません。或は、日々の営みは誰にとっても基本であって、それを大切にするということは、自分自身を大切にするということに他ならない、ということなのかもしれません。同じことの繰り返しが退屈な人生の象徴のように語られることもありますが、けしてそうではない。その繰り返しこそが自分を育んでくれる素地となっているに違いない。そう思いました。
村上春樹(2015)『村上さんのところ』新潮社

2015年7月25日土曜日

客観性と美しい人生

先日誕生日が来て、また1つ歳をとりました。今年も大過なく誕生日を迎えることができ、これほどありがたいことはない、といえばその通りなのですが、人生も折り返し地点を過ぎて、50代はもう目の前。たいした人間でないのは百も承知ですが、それでも、そんな私でも元気に働いていて、まだまだできることはたくさんあります。では、どっちの方向に向かって、一体何に持てる力を注ぎ込むべきなのか。そんなことに、まだ迷っているような気がします。不惑の40代はもうそろそろ終わりそうだというのに。

The Paris Review ‏@parisreviewのツイートである日、流れてきた作家のノーマン・メイラーの言葉は、兼ねてから考えていたことと同じで、このインタビューを読んで思わずひざを打ちました。

INTERVIEWER
"Let’s talk about age, growing old, and let’s be precise. How does the matter of growing old affect your vanity as a writer? There is perhaps nothing more damaging to one’s vanity than the idea that the best years are behind one."
(年齢、年をとることについてお話しましょう。しかもずばりお聞きします。年をとるという問題が、作家としての虚栄心にどのように影響するものでしょうか。自分のピークの年は、もう過ぎ去ったのだ、という考えほど、人の虚栄心を傷つけるものはないかもしれない、と思うのですが。)
 MAILER
"Well, I think if you get old and you’re not full of objectivity you’re in trouble. The thing that makes old age powerful is objectivity. If you say to yourself, My karma is more balanced now that I have fewer things than I’ve ever had in my life, that can give you sustenance. You end up with a keen sense of what you still have as a writer, and also of what you don’t have any longer. As you grow older, there’s no reason why you can’t be wiser as a novelist than you ever were before. You should know more about human nature every year of your life. Do you write about it quite as well or as brilliantly as you once did? No, not quite. You’re down a peg or two there."
(ああ、もし歳を取って、それでも客観性が足りないようでは、痛い目にあうと思うよ。重ねた年齢に力を発揮させることができるのは、客観性だから。これまでの人生よりも持ち物が少なくなっている分、自分のカルマは、よりバランスがとれているんだよ、と、自分に声をかけてやれば、それが生きる力を与えてくれるはず。しまいには、作家として自分がまだ持っているもの、そしてまた、もう持っていないものが何なのか、はっきりわかるようになる。歳を取るにつれて、作家として前よりも賢明にならないわけがない。人生の中で、年々、人間の性質をより深く知るようになる。では、以前書いたのと同じくらいうまく、同じくらい素晴らしく、書けますかだって?いや、それがそうはいかない。そこでは、高かった鼻をへし折られてしまうんだ。 
INTERVIEWER
"Why?"
(どうしてでしょう?) 
MAILER
"I think it’s a simple matter of brain damage and nothing else. The brain deteriorates. Why can’t an old car do certain things a new car can do? You have to take that for granted. You wouldn’t beat on an old car and say, You betrayed me! The good thing is you know every noise in that old car."
(単に脳がダメージを負っているというだけのことだよ。他の何ものでもない。脳が劣化しているんだ。新しい車がやってのけるいろんなことを、どうして古い車はできないんだろう。いや、そんなの当然なんだって思わなけりゃだめだ。古い車に乗ってて、裏切りもの!なんて言ったところで仕方がない。勝てっこないんだよ。いいのはその古い車のノイズなら、どれもみんな自分でわかってるってところだよ。)
子どもと大人の違いは何か、といえば、それは、客観性があるかないか、ではないでしょうか。私たちは皆、自分の意識を通して、物事を見て理解しています。物の見方が自分中心、主観的になってしまっても不思議ではない状況が整っているわけです。一方、大人というのは、色々な経験を積んでいるので、似たような状況の中で、別の立場であった記憶などを持っています。だから、ある立場の人が、今どういう気持ちでいるのか、或は、その立場の人から見たこちらの姿がどんな風であるか、といったことがありありと想像できる。主観的な目で自分を見れば、一つのことに捉われていっぱいいっぱいになってしまうばかりだけれど、そんな自分からいったん離れて、外から客観的に眺めてみると、自分の中に抱えていた問題も相対化されて、冷静にとらえることができるようになるのだと思います。

テレビや映画でお見かけする芸能人の方の外見が、総じて美しいのは、他人に見られる職業だから、という話を耳にすることがありますが、そうではないと思う。私たち一般人も常に他人には見られている。彼らが違うのは、テレビや映画に映る自分の姿を、他人と同じ、客観的な目で見つめることができる機会が常に与えられているから、だと思います。鏡の中に切り取られた正面からの姿だけでなく、後ろ姿でも遠くからのアングルでも、気を抜いて無防備な表情の時でも、そんな自分を全て見ることができて、客観的な視点から自分の外見について考えることができるから。

そう考えると、外見的にも内面的にも、客観的に自分を捉えることの威力は絶大で、常にそのことを頭の片隅に置いておくと、美しい人生が歩めることは間違いないという気がします。今生きているこの人生でも、まあまあそれなりに頑張ってるよ、という気はするものの、キャサリン・アン・ポーターが「私たちは皆、一生をかけて、何者かになるための、何かを成し遂げるための準備をしているのだと思うのです。」と言うように、何かを成し遂げた、と満足できる境地に、この根性なしの私でも達することができるものなのか。いささか自信は無いのですが、でも、あきらめずにそこに向かっていきたい。そして、その歩みがどうか、美しいものでありますように、と祈る今年の誕生日なのでした。

The quoted part is from:
Norman Mailer, The Art of Fiction No. 193 Interviewed by Andrew O'Hagan in The Paris Review http://www.theparisreview.org/interviews/5775/the-art-of-fiction-no-193-norman-mailer

2015年6月6日土曜日

キャサリン・アン・ポーターの言葉から、就職について考える

                                     
キャサリン・アン・ポーター(Katherine Anne Porter)は、1890年に生まれ、すでに1980年に90歳で亡くなったアメリカのジャーナリストです。ピューリッツァー賞も受賞しています。この人の言葉がThe Paris Review のツイートで、ある日流れてきたのですが、その言葉が、本当にその通りだと思えて、しばし立ち止ってしまいました。

                                     
"All this time I was writing, writing no matter what else I was doing; no matter what I thought I was doing, in fact. I was living almost as instinctively as a little animal, but I realize now that all that time a part of me was getting ready to be an artist. That my mind was working even when I didn’t know it, and didn’t care if it was working or not. It is my firm belief that all our lives we are preparing to be somebody or something, even if we don’t do it consciously. And the time comes one morning when you wake up and find that you have become irrevocably what you were preparing all this time to be. Lord, that could be a sticky moment, if you had been doing the wrong things, something against your grain. And, mind you, I know that can happen. I have no patience with this dreadful idea that whatever you have in you has to come out, that you can’t suppress true talent. People can be destroyed; they can be bent, distorted and completely crippled. To say that you can’t destroy yourself is just as foolish as to say of a young man killed in war at twenty-one or twenty-two that that was his fate, that he wasn’t going to have anything anyhow."
(その間も、私は書いていました。どんなに他のことをやっていたとしても、何を考えていたとしても、やはり書いていました。何かの小動物のようにほとんど本能的に生きていたんですが、今思うと、あの頃、自分の中のどこかでアーティストになるために、着々と準備を整えていたのだと思います。そんなこと知らなかった時でも、私の心は動いていたのです。動いていようがいまいが、気にもしてなかったのに。これは、私の確固たる信念なのですが、私たちは皆、一生をかけて、何者かになるための、何かを成し遂げるための準備をしているのだと思うのです。たとえ、そう意識していなかったとしても。そして、ある朝その時が来て、目覚めると、自分がずっと準備をしてきたものになっていて、もう後戻りはできないとわかるのです。ああ、もしも間違って、自分の性質に合っていないことをしていたとすると、それは嫌な瞬間になるでしょうね。そして、言っておきますが、そういうことは起こりうるのです。私にはわかる。私はこの恐ろしい考えにがまんできないのです。自分の中にあるものは、それが何であれ、外に出て来なくてはいけないし、その本来の才能を押さえつけたりなんてできないのです。人は、損なわれることがある。捻じ曲げられたり、歪められたり、完全な自由をなくしたりする。自分自身を損なうなんてだめ、などというのは、若い男の子が戦争で21歳とか22歳とかで殺されて、何をどうやっても何も手に入れることはない、それがその子の運命だったのだ、などと言っているのと同じ。馬鹿げた話です。)
"I have a very firm belief that the life of no man can be explained in terms of his experiences, of what has happened to him, because in spite of all the poetry, all the philosophy to the contrary, we are not really masters of our fate. We don’t really direct our lives unaided and unobstructed. Our being is subject to all the chances of life. There are so many things we are capable of, that we could be or do. The potentialities are so great that we never, any of us, are more than one-fourth fulfilled. Except that there may be one powerful motivating force that simply carries you along, and I think that was true of me. . . . When I was a very little girl I wrote a letter to my sister saying I wanted glory. I don’t know quite what I meant by that now, but it was something different from fame or success or wealth. I know that I wanted to be a good writer, a good artist."
(私は、本当に信じているのです。誰の人生も、その人の経験とか、その人に起こったことで説明できるものではないのです。だって、あらゆる詩とか、逆にあらゆる哲学とかとは関係なく、私たちは自分の運命なんて、実際には支配できないのですから。何の助けも無い、あるいは、何の妨げも無い状態で、人生を進めていきはしない。私たちの存在は、人生のあらゆる偶然のなすがままなのです。でも、こうなろう、こうしようと思って、できることはたくさんあります。可能性はとても大きなもので、私たちは、誰一人として、その4分の1ほども達成できはしない。でも、例外的に、ただもうあなたを強引に運んで行ってしまうような、ものすごく強力に働きかけてくる力が、あるかもしれません。私の場合はありましたね。幼い少女だったころ、姉に手紙を書いたことがあるのです。私は栄光が欲しい、って。栄光だなんて、どういう意味か、今でもよくわからないのですが、それは、名声とか、成功とか、富とは違うような気がします。ただ、良いものが書ける良いアーティストになりたかった、そういうことだと思います。)
周りの若者は、皆、口を揃えて「将来の夢なんてない」「どんな仕事に就けばいいのかわからない」とそう言いますが、そりゃそうだよ、と思う。私は私の仕事しかしたことは無いけれど、辺りを見渡して他人の仕事の様子をみても、仕事というのは1つ1つがまるで違うような気がします。同じ職種であっても、従事する人がどんな思いをもって、どう取り組んでいるかによって違うし、共に働く人々がどんな人々かによっても違う。大きな組織か小さな組織か、順調に運んでいるのか、苦戦しているのかによっても全く違う。労働条件や待遇だって、個々人の価値観や人生観で、受け止め方は様々だと思います。仕事そのものに関わる要素と、仕事の環境に関わる要素と、自分自身に関わる要素と。この際、仕事そのものに関わる要素以外は、考えないことにして、といきたいところではありますが、そんなわけにはどうしてもいかない。三者は混然と一体化しており、切り離して考えたところで、そう意味はない。そんなありとあらゆるファクターを抱えた無数の仕事が世の中にはあって、自分の知らない、想像を超えた世界がそこに大きく広がっている。それを知らないままにどれか一つを選び取ろうとしなければならないのだから、そんなのそもそも無理な相談じゃないかという気がします。それでも、一応、職種を想定したり、自分の適性や生き方を考えて、そこに向かって何らかの準備を進めていく。そうしてようやく、ある仕事に辿り着くのです。

さらにいえば、それは、決してゴールなんかではない。仕事の中においても、私たちは、日々難問に直面し、それを解決し成長していきます。失敗に自信を喪失することもあれば、できなかったことができるようになって、新たなやりがいを見いだしたりすることもある。仕事に就いた後も、自分の適性や生きる意味を考えて、自分はここで何を成し遂げることができるだろうか、と自問しながら手探りで前に進んでいくのです。つまり、就職した後でさえも、自分は何かを探しているし、「仕事」は変化し続けていく。外から見れば、単に「営業」だったり、「公務員」だったり、「店員」だったりで、それらの人は、それぞれ皆同じことをやっているように見えるのかもしれないけれど、就職したばかりの時と、何十年か経ったベテランになった時では、自分の中では同じ仕事をやっているとは思えないほど、仕事に対する心構えも、実際の仕事内容も全然違う様相を呈してくるのです。

そう考えると、就職というのは、こういうことなのかな、と思います:

自分の性質にピンとくるような、自分が働いている姿が想像できるような仕事とは何か常にアンテナをはり、得意とするもの、または必要な(と思われる)ことを学んでおくなどの作業をしつつ、就職を斡旋してくれる人、先生や先輩、親戚の人、近所の人、その知り合いの人、などが運んでくる情報(就職口の話だけではありません。知り合いにこんな仕事をやっている人がいる、とか、あの人はこの仕事があの仕事につながって今、こんなことやっている、とかそういう情報も大きいのです)との運命的な出会いを求め、キャサリン・アン・ポーターの言うところの、「一生をかけて、何者かになるための、何かを成し遂げるための準備をする」機会を与えてもらうこと。

どうでしょうか。自分は自分の仕事しかやったことはないので、本当のところ、よくわからないのですが。

The quoted part is from:
Katherine Anne Porter, The Art of Fiction No. 29
Interviewed by Barbara Thompson in The Paris Review Davishttp://www.theparisreview.org/interviews/4569/the-art-of-fiction-no-29-katherine-anne-porter

2015年5月16日土曜日

確かにそこに存在する理由があって皆、生きている

10代の頃は、詩を読むのが好きで、よく詩を拾い集めていました。見たこともないような新鮮なつかわれ方をする言葉、語感のきれいな言葉、字面の美しい言葉。そんな言葉に驚いては、何度も眺めたり、ノートに書き写してみたりしていたように思います。でも、いつの間にか―仕事をするようになってからか、子供を持つようになってからか―詩のことは忘れてしまっていました。


最近になって、主に歌の歌詞を通じて、また、詩を読むようになりました。そして、brainpickingsに紹介してあった、この美しい詩を知りました。ポーランドの詩人、Wislawa Szymborska(ヴィスワヴァ・シンボルスカ)のPossibilities(「可能性」)という詩です。ポーランドの詩人の詩なのだから、おそらく原文はポーランド語なのでしょう。ノーベル文学賞も受賞されている方のようですので、日本語訳もすでに存在しているのではないかと思います。いずれにせよ、私はこの詩を原文で読むことは、残念ながらできません。ここは、偶然出会った英語訳を読んでおくことにしたいと思います。

この詩には、「私はこっちの方が好き」という事柄が31個列挙されています。その中で私が気に入ったものは、以下の通り。

I prefer movies.
(映画の方が好き)
I prefer cats.
(猫の方が好き) 
I prefer exceptions.
(例外の方が好き) 
I prefer talking to doctors about something else.
(お医者さんと関係の無い話をする方が好き) 
I prefer, where love’s concerned, nonspecific anniversaries that can be celebrated every day.
(恋愛に関しては、特別な記念日ではない毎日を祝福していたいと思う) 
I prefer the hell of chaos to the hell of order.
(秩序だった地獄よりも、混沌とした地獄の方がまし) 
I prefer not to ask how much longer and when.
(いつまで、とか、いつ、なんて、あえて聞かない方がいい)

こういうことを考えていると、私だったらこう、って言いたくなります。

I prefer tiny wildflowers.
I prefer the shadow of the moon light.
I prefer pretending not to notice.
I prefer sitting side by side.
I prefer being despised.

まだまだ続けられそう。
でも、最後の1行は、この1行しかありえません。

I prefer keeping in mind even the possibility that existence has its own reason for being.
(確かにそこに存在する理由があって皆、生きている。その可能性だけでも、いつも忘れないようにしていたい)

引用:The quoted part is from:
brainpickings
http://www.brainpickings.org/2015/03/18/amanda-palmer-wislawa-szymborska-possibilities-poem-reading/?utm_content=buffer19bd6&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer

2015年3月27日金曜日

沈む夕日と舞い降りる雪の意味-村上春樹の言葉から-


村上春樹さん、ごくたまに、出版社を通じて読者との交流サイトのようなものを立ち上げて、読者とメールのやり取りなんかをしてくださいます。敢えて広く告知などはされず、知る人ぞ知るという感じでされるので、しばしば見落としてしまうのですが。現在も、もう、質問・相談メールの受付は締め切られていますが、読者からのメールとそれに対する村上さんのお返事が、『村上さんのところ』という新潮社主催のサイト(http://www.welluneednt.com/)で、随時公開されています。ツイッターのアカウントもあり、(村上さんのところ@murakamisanno)更新されるたびに知らせてくれます。もちろん、フォロワーになって、更新されるのをいつも楽しみにしています。

今回のやり取りでは、外国の方から英語で寄せられる質問も多く、それには、村上さんが英語で答えておられます。英語での答えが、意外に日本語以上に心に響く言葉で書かれていて、妙に納得してしまいます。以下に引用している文章は、「読者に読み取ってほしいメッセージや、読者に自分なりのメッセージを見つけてほしい、 というようなことが、あなたの本にはあるのか」という、アメリカ人(おそらく)の女性の質問に対する答えとして書かれたものです。

"My books are an open text entirely. You can interpret it any way you like, or you can leave it uninterpreted. My book is just like a sunset or snowfall. You don’t have to take away any meaning from a sunset or snowfall, do you? But if you do need some meanings, it’s up to you. In any case, enjoy reading. That is the main thing."
(僕の本は、完全に読む人に開かれている文章です。好きなように解釈してくださればよいし、解釈しないままでいても構いません。僕の本は、ちょうど、沈む夕日や舞い降りてくる雪のようなものです。夕日や雪から、何か意味を取り出さなくてはならないわけではないですよね?でも、もしも、何らかの意味が必要になれば、それもあなた次第です。いずれにせよ、楽しんで読んでください。それが一番ですから。)



人間というものはあらゆるものごとに、意味づけをせずにはいられない動物だとどなたかが書かれているのを目にしたことがあります。世界のあらゆる出来事が、お互いにかみ合わない単なる断片の寄せ集めで、そこに偶然しかなければ、また、ただ理不尽な事実に翻弄されているばかりでは、どうやって生きていけばよいのだろう、という気がするに違いありません。そこになんらかの意味を見出して、なんとか差し出されたものを飲み込むからこそ、人生に折り合って、納得して先に進んでいけるのだと思います。村上春樹の小説も、文体の心地よいリズムに乗って、どんどん読み進めてしまえるのですが、一つ一つのエピソードから、意味を見いだして解釈を加えるのは、必ずしも簡単なことではありません。おそらく、読む人によって様々な解釈が考えられることでしょう。私たちの人生も同じ。出会う人、住んでいる場所、生まれながらの境遇、突然降りかかってくる出来事。心を開いて、発想を柔軟にして、そういった物事に一つ一つ意味を見いだして、自分という存在の意味をしっかりと受け止めてくれる物語を作っていく。そうやって、前に進んでいくしかないのではないか、という気がします。


引用:The quoted part is from:
『村上さんのところ』http://www.welluneednt.com/entry/2015/03/22/203600

2015年3月8日日曜日

私と文章と音楽とースタンリー・クニッツ(Stanley Kunitz)のインタビューからー

このブログでも、繰り返し取り上げてしまうのですが、文章が持つ音楽性に惹かれてやみません。

 音楽と文体(1)~Maya Angelow の言葉から~ 
  音楽と文体(2) ~村上春樹の言葉から~
  http://onehundredpercentinspiration.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html)

先日も、フォローしている The Paris Review 誌(The Paris Review@parisreviews) のツイートから、
アメリカの詩人、スタンリー・クニッツ(Stanley Kunitz)のインタビュー記事を知りました。

     
KUNITZ
"The poem in the head is always perfect. Resistance starts when you try to convert it into language. Language itself is a kind of resistance to the pure flow of self. The solution is to become one's language. You cannot write a poem until you hit upon its rhythm. That rhythm not only belongs to the subject matter, it belongs to your interior world, and the moment they hook up there's a quantum leap of energy. You can ride on that rhythm, it will carry you somewhere strange. The next morning you look at the page and wonder how it all happened. You have to triumph over all your diurnal glibness and cheapness and defensiveness."
クニッツ
(詩は頭の中では、必ず完璧なんですよ。それを、言語に変換しようとしたとたん、抵抗に遭うんです。言語それ自体が、純粋な自分という流れに対する、ある種抵抗なんですね。解決方法は、その言語になってしまうことです。その言語のリズムに行きあたるまで、詩を書くことなどできないのです。リズムは、題材にあるだけではなく、自分の内なる世界にもあります。そして、そのリズムがつながった瞬間に、エネルギーが溢れ出してくるのです。自分はただリズムに乗ればよい。そうすると、どこか不思議な場所に連れて行ってくれるから。翌朝、書いていたページを見て、一体これはどうなってたんだ、と思いますよ。ただ、饒舌さとか、安っぽさ、守りの姿勢なんかには、打ち勝つようではないといけません。)
クニッツは、詩にリズムがあるのはもちろんのこと、自分の中にもリズムがあって、その両者がつながることが大切だと言っています。
KUNITZ
"The struggle is between incantation and sense. There's always a song lying under the surface of these poems. It's an incantation that wants to take over—it really doesn't need a language—all it needs is sounds. The sense has to struggle to assert itself, to mount the rhythm and become inseparable from it."
クニッツ
(リズムと意味との格闘です。詩の表面のすぐ下には、いつも歌があるのです。まるでじゅ文のようなリズムがすぐに任せておけ、と控えている。そこには言葉なんて要らない。必要なのは音だけなのです。意味はといえば、存在を主張しよう、リズムに乗ろうと戦って、リズムと分かちがたくなっています。) 
KUNITZ
Rhythm to me, I suppose, is essentially what Hopkins called the taste of self. I taste myself as rhythm.
クニッツ
(リズムは私に言わせれば、詩人のホプキンズが言う、自分の「味」だと思う。私は、自分自身をリズムとして味わっているんです。) 
KUNITZ
The psyche has one central rhythm—capable, of course, of variations, as in music. You must seek your central rhythm in order to find out who you are.
クニッツ
(1人の人間の魂には、一つの中心となるリズムがあるんです。音楽のように、様々なバリエーションも、もちろんありうるけれど。自分がどんな人間かを見つけ出すために、中心となるリズムを探さなければならないのです。)
確かに自分には自分なりのテンポやリズムがあると思います。話すテンポ、歩くテンポ、考えるテンポ 。自分のテンポは人とは違うと思う。また、普段気にかけることはありませんが、私の身体の中では、心臓が鼓動し、それに合わせて血液やリンパ液がごうごうと廻り、吸ったり吐いたりする息が、これも規則的に音をたてている。走ったり、階段を上ったり、びっくりしたり、満足したり、そんなことでリズムが変わったりもする。そんな風に一瞬、一瞬を生きているのだから、例えば、安定したドラムに支えられた音楽を聞いた時に、私の身体が呼応して、リズムを取りたくなるのも、自然なことだと思われます。言語というのも、文字よりも先にまず、音がくるものだとすれば、音は息を操って発するものである以上、呼吸のリズムに深くかかわってくるのも当然といえば当然でしょう。呼吸をする自分のリズム、息を操って発する言語のリズム、リズムが作り出す音楽、この3つは相互に深く関わり合っているような気がします。

私の魂の中心となるリズムは、私の好きな文章や音楽に、やはり、呼応しているものなのでしょうか。人生に、自分の心に響く文章や音楽があるというのは、とても素敵なことだと思います。

引用:The quoted part is from;




2015年2月5日木曜日

「ときめき」の仕分けから成功は始まるーAlain de Botton(アラン・ド・ボトン)のTED talkからー

「ときめく」ものだけを残して後は処分すべし、ということを訴える整理整頓の本が、ベストセラーになっているようです。私も本を手にしてみました。この、「ときめく」もの、という考え方が実に興味深い。はじめは「ときめく」だなんてわかりづらそう、と思っていたのですが、実際やってみると、「ときめく」ものと、そうでないものは、不思議と区別できる。ハンカチでも、Tシャツでも、一棚分の本でも、iPodの中の音楽でも、分けようと思えば、それは分けられるものだとわかりました。また、「ときめく」ものを察知するアンテナは、かなり不安定なものらしく、ややもすると、すぐに受信障害を起こしてしまう、というのも発見です。例えば、もしかしたら使う時が来るかも、とか、でも、これは高かったから、とか、頂き物だから、とか、別の要素が介入してきて、「ときめき」がわからなくなってしまうのです。
"One of the interesting things about success is that we think we know what it means. A lot of the time our ideas about what it would mean to live successfully are not our own. They’re sucked in from other people. And we also suck in messages from everything from the television to advertising to marketing, etcetera. These are hugely powerful forces that define what we want and how we view ourselves. What I want to argue for is not that we should give up on our ideas of success, but that we should make sure that they are our own. We should focus in on our ideas and make sure that we own them, that we’re truly the authors of our own ambitions. "
(「成功」にはいろいろな面白い面があるのですが、その一つに、私たちが、それが何たるかを知っていると思っている、ということがあります。しかし、多くの場合、私たちが成功した人生とはこういうものだと思っているのは、自分で考えた成功ではない。他の人の考えを取ってきたものだったりします。または、テレビや広告などありとあらゆるものからのメッセージから受け取ったものもある。こういうものは、すさまじい力を持っていて、私たちが何を望めばいいのか、自分をどう評価すればいいのかを、決めつけてしまうのです。私がここで言いたいのは、では、成功について自分で考えるのをあきらめよう、ということではなくて、それが本当に自分にとって成功なのかということを自問しよう、ということです。自分の考えに集中して、それが自分にとっての成功であるのか、本当に自分の望む野心なのか、を自問すべきなのです。)


brainpicking で 哲学者のアラン・ド・ボトン(Alain de Botton)のTED talkが紹介されているのを目にしたとき、まず、連想したのが、前述の「ときめき」による仕分け、でした。哲学者の語る成功が、整理整頓と結びついてしまうのが意外に思えますが、人生は大なり小なり取捨選択の連続なので、いらないものを処分することを避けて通れない整理整頓が、人生の一大事と重なるのも、当然といえば当然なのかもしれません。

これは私に「ときめき」を与えてくれるものだろうか?と、自分の心の奥の方をのぞきこんで、じっと耳を澄ませてみる。ああ、これを目にすると、手にすると、耳にすると、「私」が悦ぶ。「ときめく」ものでいっぱいの場所は、自分らしくて心から満足できる。そして、それは、まず間違いなく、他の誰かの「ときめく」ものとは違っていて、同じものを選ぶ人は、他に2人といないはずだと確信できます。

自分が「ときめく」ことにこそ、自分の人生にとって意味がある。それなのに、私たちのアンテナは、メディアに取り上げられるもの、他の人からの評価が高いものが、つい、自分の望んでいるものだったかのように思えてしまったりと、ここでもぶれてしまいがちです。『富』『名声』『難関大学』『狭き門』『競争率の高い就職先』『勝ち組』『ステイタス』『ブランド』『人気者』・・・こういった言葉で表される世界は、「一般に」良いとされていて、それを手にすれば幸せになれる、ということが通念となっています。しかし、アラン・ド・ボトンはそこにまず疑念を持つことが、成功への第一歩だと言っているわけです。それは本当にその通りで、例えば、努力の結果、見事この言葉の世界へ足を踏み入れることができたとします。その瞬間は最高の喜びを感じるはずですが、多くの場合、それがゴールというわけではない。私たちは、その後、ずっとその世界を生きていかなくてはならなくなるのです。一瞬のゴールではなくずっと続くものだとすると、また、続けていく努力をしなければならないものだとすると、そこが自分が「ときめく」場所でないと、本当に辛いのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

そうやって考えてみれば、整理整頓も侮れない。安定して「ときめき」を受信できるように、怠りなくアンテナの精度を上げておきたいものだと思いました。

2015年1月1日木曜日

アニー・ディラードとスケジュールについて


スケジュール帳を使っています。A6サイズで水色の表紙。月の予定が一覧できるページと、1週間が見開きで、毎日のスケジュールを縦の時間軸で書き込みができるページの両方があります。毎週、毎日のはじめに月の予定のページから、今週の予定を確認して、時間軸の欄に赤字で書き込んでおきます。周りの空欄に、その週にしなくてはならないことを書きだしておきます。(毎日どんどん増えていきます)赤字の予定以外の時間は、自分の自由になる時間なので、その部分に、しなくてはいけないことを優先順位を考えながら、入れていきます。実際に仕事を仕上げるのに、どのくらい時間がかかったかもメモします。(後日同じ仕事をする時に計画が立てやすくなるし、途中で別の作業を始めたりしてしまうことが避けられます)そして、to-do-listの中の終わった仕事は、二重線で消していきます。なるべく短い時間で、最大の効果をあげたいと、いつもスケジュールとにらめっこしていて、この水色のスケジュール帳が無ければ、全く仕事ができないだろう、と思います。


"How we spend our days is, of course, how we spend our lives. What we do with this hour, and that one, is what we are doing. A schedule defends from chaos and whim. It is a net for catching days. It is a scaffolding on which a worker can stand and labor with both hands at sections of time. A schedule is a mock-up of reason and order—willed, faked, and so brought into being; it is a peace and a haven set into the wreck of time; it is a lifeboat on which you find yourself, decades later, still living. Each day is the same, so you remember the series afterward as a blurred and powerful pattern."
(毎日をどう過ごすかは、もちろん、人生をどう過ごすかということになります。この時間、次の時間をどうするかが、自分が取り組んでいることなのです。スケジュールを立てると、混乱したり思い付きで行動したりするのを防げます。スケジュールは1日を逃がさないようにする「網」になるというわけです。働いている人にとってはよって立つ足場であり、時間ごとに手いっぱいでこなさなくてはならない仕事でもあります。スケジュールとは、なぜそれをするのか、そして、何を優先するかについての雛形のようなもので、そうしようとする意志はあるのに、その通りにはいかない、また、だからこそ実現を可能にしてくれるのです。混乱してどうにもならなくなった時間に、秩序と安心をもたらしてくれるもの。その救命ボートに乗っていれば、何十年か後に、自分がまだ生きていることに気づくことでしょう。毎日同じように過ごしていても、後になって、ぼんやりした、でも同時に力強いパターンとして、一連の日々を思い出すことになるのです。)
これは、brainpickings(http://www.brainpickings.org)で紹介されていた、アニー・ディラードという女性作家が書かれた文章です。一般ノンフィクション部門で、ピューリッツァー賞も受賞された方だということです。これまで存じ上げず、作品も読んだことはなかったのですが、この方の、スケジュール、ということへの考え方に共感が持てる、と思いました。

一度にたくさんのことをこなさなくてはならなくなった時、自信の持てないことに取り組まなくてはいけなくなった時などに、まず、一度、やるべきことを書き出してみて、優先順位をつけたりして、頭の中を整理することができると、それだけで、心の負担が軽くなるような気がします。また、やらなくてはならないことはもちろん、自分の「やりたいこと」や「将来こうありたい。そのために必要なこと」もリストにして、やらなくてはならないことの中に加えてみます。そうすると、二重線で消していく、その先の未来には、自分の夢見る自分の姿があるようで、なんだか楽しくなるような気がしてきます。

2015年のスケジュール帳はどんなことが書き込まれるのでしょうか。いろんなことを書き込みたくなるような、充実した1年になるといいな、と思っています。

どうぞ、良いお年を。

引用:The quoted part is from:
How We Spend Our Days Is How We Spend Our Lives: Annie Dillard on Presence Over Productivity http://www.brainpickings.org/2013/06/07/annie-dillard-the-writing-life-1/?utm_content=buffer18b9b&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer

2014年12月17日水曜日

トルーマン・カポーティと文体の話

学生時代、田辺聖子さんの著書を徹底して読んだ時期があります。1人暮らしをしていた頃で、休日ともなると、目覚めてベッドの中から起きだしもせずに、眼鏡をかけて本の続きを開く。お腹がすいたな、と思ったころに起きだして、適当に何か食べて雑用を済ませた後、近くの本屋に行き、新しい「田辺聖子の本」を仕入れてくる。お風呂に入って夕食を食べたら、早めにベッドに入って、新しい「田辺聖子の本」を読み始め、睡魔に襲われるまで夜更かしをして読む。・・・という調子で、ずーっとエンドレスに読み続けました。当時文庫として書店で手に入るものが、100冊前後あったでしょうか。全て読み尽くしたと思います。何を思ってそんな生活を送っていたのか。ひとえに楽しくてやっていた、としか言いようがありません。子供たちがゲームにはまっている状態と同じだったと思います。人間観察の視線の鋭さなど、内容的にはっと気づかされることも多々ありましたが、それより何より、ドライブのある文章の、文体にのる楽しさ。それだけに突き動かされるようにして、読み続けたと思います。味わうべきは文体にあり。このことを、とことん体験した時期だったと思います。

村上春樹さんはまだ若い高校時代に、トルーマン・カポーティの文章を読んで、世の中にこんなに美しい文章があるのか、と感動したそうです。へえ、と思って私も何冊か、手に取ってみたのですが、そこは哀しい外国語。意味はわかったとしても、田辺聖子の文体に、村上春樹の文体に、夢中になるあの楽しさは、英語の文章ではなかなか味わうことはできませんでした。

フォローしている The Paris Review 誌(The Paris Review@parisreviews) のツイートに、そのトルーマン・カポーティのインタビューの記事が紹介されていました。トルーマン・カポーティは、文体についてこう語っています。


INTERVIEWER:
Can a writer learn style?
(作家は文体を学習することができますか?) 
CAPOTE:
No, I don’t think that style is consciously arrived at, any more than one arrives at the color of one’s eyes. After all, your style is you. At the end the personality of a writer has so much to do with the work. The personality has to be humanly there. Personality is a debased word, I know, but it’s what I mean. The writer’s individual humanity, his word or gesture toward the world, has to appear almost like a character that makes contact with the reader. If the personality is vague or confused or merely literary, ça ne va pas. Faulkner, McCullers—they project their personality at once.
(いや、文体は意図的に努力してそこにたどり着けるものではないと思う。自分の目の色がその色なんだってことと同じだよ。つまるところ、文体っていいうのは、その人そのものだからね。しまいには、作家の人格というのは、作品に大いにかかわることになる。人格というのは、品の無い言葉だね。わかっているよ。でもぼくが言いたいのは、そういうことなんだ。作家個人の人間性とか、世の中に対するその人の言葉や姿勢とかが、ほとんど性格のような感じで出てこないようでは嘘なんだよ。それで、読者と関係を作っていくわけだから。もし、人格がはっきりしなかったり、混乱していたり、単に文学の上のことだったら?ソレハナイ。フォークナーだって、マッカラーズだって。人格が、即、浮かび上がっているじゃないか。) 
INTERVIEWER:
It is interesting that your work has been so widely appreciated in France. Do you think style can be translated?
(カポーティさんの作品が、フランスで多く読まれているというのは、おもしろいですね。文体というのは、翻訳が可能なものだと思われますか?) 
CAPOTE:
Why not? Provided the author and the translator are artistic twins.
(もちろんだよ。作家と翻訳家が文芸の世界で双子だった場合、ということだよ。)
文体がその人そのもの、というのはよくわかる気がします。その人の見たもの、聴いたもの、信じるもの、あらゆる体験の全て。その人の持つテンポやリズム、息の長さ、その全てを投じて、文章というものは書かれ、文体が形づくられる。だからこそ、そこに夢中で飛び込む人を受け止めるほどの、包容力を持つのではないでしょうか。

それにしても、いずれ、英語で書かれた文章でも、その文体を夢中になって楽しむことができるようになる、というのが私の悲願です。そうなった時には、田辺聖子や村上春樹のような、自分にとってかけがえのない文体を持つ著者と運命の出会いを果たし、その翻訳をしてみたい、というのも、私の数年来の夢です。そんな日がいつかやってくるといいな、とわくわく、きょろきょろして、毎日を過ごしています。

引用:The quoted part is from;

Truman Capote, The Art of Fiction No. 17, Interviewed by Pati Hill, in The Paris Review No. 16, Spring-Summer 1957 http://www.theparisreview.org/interviews/4867/the-art-of-fiction-no-17-truman-capote

2014年11月1日土曜日

「アートの言語は母語ではない」-ジャネット・ウィンターソンの言葉から-

以前どなたかが、人のツイートやYouTubeのおすすめを見ても、良いと思えなかったり、笑えなかったりすることはよくあり、人と人とは違うものだと痛感する、と言われているのを聞いたことがあります。たとえ、母語が同じ人同士であっても、趣味や興味、専門分野、仕事や生活が違えば、使う言語も違ってくる。言語が違えば、認知の受け皿になるものが変わってくるわけで、そうなると異なる人間同士、共有できないものがあっても、当然といえば当然だといえるでしょう。いや、言語の違いよりも先に、そもそも認知自体が人それぞれに異なっているから、どんな言語をもってしても、お互いを共有できない、ということなのかもしれませんが。


     
いつも、心に響く文章を紹介してくださるbrainpickings (http://www.brainpickings.org/) のツイートで、superb(素晴らしい)という言葉と共に、以下の文章が紹介されてきました。
"I had fallen in love and I had no language. I was dog-dumb. The usual response of “This painting has nothing to say to me” had become “I have nothing to say to this painting.” And I desperately wanted to speak. Long looking at paintings is equivalent to being dropped into a foreign city, where gradually, out of desire and despair, a few key words, then a little syntax make a clearing in the silence. Art, all art, not just painting, is a foreign city, and we deceive ourselves when we think it familiar. No-one is surprised to find that a foreign city follows its own customs and speaks its own language. Only a boor would ignore both and blame his defaulting on the place. Every day this happens to the artist and the art."
(私は恋に落ちてしまった。でも、何も言葉が出てこないのだ。バカみたいに呆然とするほかなかった。「この絵は何も語りかけてこない」と思うとたいてい、「この絵について、何も語ることはない」という言葉が後に続くものだが、そんなことはない。私はどうしても何か語りたかったのだ。ずっと絵に見入るというのは、異国の街に立つのと同じことだ。どうしても話したくて、やけくそで、キーワードを1つ2つ、さらに単語を並べてみて、少しずつ沈黙を破る。アート、ただ絵画だけでなく、全てのアートは、異国の街だ。どこも似たようなものだと思うと、裏切られる。外国では皆、その街のしきたりに従って、その国の言語を話す。そのことに誰も驚いたりはしない。言語にも慣習にも注意を払わず、自分が相手にされていないと咎めるのは、単なるマナー違反だ。毎日、アートとアーティストには、こういったことが起きているのだ。) 
"We have to recognize that the language of art, all art, is not our mother-tongue."
(アート、あらゆるアートの言語は、自分の母語ではない。このことに気づかなくてはならないのだ。)
この文章は、Jeanette Winterson というイギリスの作家が書かれたということですが、「異国の街」というメタファーが美しく、気が利いていて、本当に superb です。芸術作品というのは、ある人の認知がそのまま色や形で表現されるわけで、共有するものが見つからない、見つかったとしても、それを言い表す言葉がみつからない、というような事態は、起こってもけして不思議ではない。アートを前に、心を動かされたり、衝撃を受けたりするものの、それをどうすることもできず、途方にくれてしまうような、あの気持ち。「あらゆるアートの言語は自分の母語ではない」と考えると、妙に納得です。

引用:The quoted part is from;
http://www.brainpickings.org/2014/10/27/jeanette-winterson-art-objects/?utm_content=bufferba634&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer

2014年9月17日水曜日

大切なものは行動することによってのみ手に入れることができる~レイ・ブラッドベリの言葉から~

Ray Bradbury(レイ・ブラッドベリ)は主に、SF小説を書いたアメリカの作家です。残念ながら、2012年6月5日にすでにお亡くなりになっていますが、作品がいくつか映画化もされた人気作家でした。私自身は、SFはほとんど読まないので、作品を読んだことはありません。しかし、Brain Pickingsのツイッターで、この彼の書いた一節を目にしました。


この短い文章を読んで、子どもが生まれて赤ん坊の世話に追われていた時に、おばあさんに言われた言葉を思い出しました。「子どもが可愛いというのは、子どもの世話に苦労するから可愛いのだ」と、そのようなことでした。言われてみればその通りで、もしも、子どもを育てるのが何の我慢も時間も労力も必要のない類のことであれば、子どもに対する思いももう少しあっさりしたものになりそうです。実際に自分の手で胸で、子どもを丸ごと抱えるから、目を離すことなく、心を砕くから、膨大な時間をそこに費やすから、自分が子どもの一部になり、子どもが自分の一部になる。そういうことだと思いました。

"The farmer who farms creatively and happily is a man that knows every stalk of wheat or corn that comes up on his land because he has tilled these fields, because he has planted the seed, because he has picked the fruit, because he has painted the barn… So we belong only by doing, and we own only by doing, and we love only by doing and knowing. And if you want an interpretation of life and love, that would be the closest thing I can come to." (新しいものを生み出して、喜々として農業に従事する農家というのは、すなわち、自分の農地に生えている、あらゆる麦の、あるいはトウモロコシの茎一本一本がわかっている人のことだ。なぜなら、自分自身がその土地を耕しているから。自分で種をまき、果実を収穫しているから。納屋にペンキを塗っているから。・・・そう、何か行動しないでは、自分の居場所は見つからない。実際に手を動かすことではじめて自分のものとなる。行動し、理解することでのみ、愛情は生まれるのだ。人生とは、愛とは何か、その答えが知りたいということなら、私がたどりついた答えは、おそらくそういうことになるだろう。)

子どもを育てることなどはその最たるものに違いないと思いますが、その他のことも全てそうなのではないでしょうか。ただ傍観していることでなく、自分が思い入れを持って取り組んでいること。困難にあっても投げ出さず、自らの手で動かしていること。苦労はあってもそれを楽しんでいること。私にもそういうものが、いくつもあります。自分の生活の中のそういったもの。それが、自分にとっての愛情であり、人生そのものなのだ。ブラッドベリの言葉に、そう気づかされました。

引用;The quoted part is from;
"Brain Pickings"

2014年8月19日火曜日

音楽と文体(2) ~村上春樹の言葉から~

前回の投稿で、マヤ・アンジェロウのインタビューから、文章と音楽との関係について取り上げました。ちょうど、その後、ツイッターでフォローしている、Open Culture https://twitter.com/openculture からのリツイートで、New York Times紙の記事を知りました。大好きな村上春樹によるエッセイで、ここにも、音楽と文体について書かれてあります。



村上春樹は、幼いころから大変な読書家だったのですが、29歳になるまでは小説を書こうとは少しも思っておらず、大学卒業後は、千駄ヶ谷でPeter Catという小さなジャズクラブを始めました。そして、好きなジャズを朝から晩まで聴いて過ごしていました。そんな毎日を過ごしていたある日、突然、小説を書こう、小説が書ける、という考えが頭に浮かんだのだそうです。それは、こんな風に始まりました。

"...Inside my head, though, I did often feel as though something like my own music was swirling around in a rich, strong surge. I wondered if it might be possible for me to transfer that music into writing. That was how my style got started."        (・・・僕は頭の中で、自分自身の音楽のようなものが、勢いよくあふれるように、ぐるぐる回っているのを感じるようになっていた。この音楽を文章に変えることができるんじゃないか。そんな風にして僕の文体は生まれた。) 

"Whether in music or in fiction, the most basic thing is rhythm. Your style needs to have good, natural, steady rhythm, or people won’t keep reading your work. I learned the importance of rhythm from music — and mainly from jazz. Next comes melody — which, in literature, means the appropriate arrangement of the words to match the rhythm. If the way the words fit the rhythm is smooth and beautiful, you can’t ask for anything more. Next is harmony — the internal mental sounds that support the words. Then comes the part I like best: free improvisation. Through some special channel, the story comes welling out freely from inside. All I have to do is get into the flow. Finally comes what may be the most important thing: that high you experience upon completing a work — upon ending your “performance” and feeling you have succeeded in reaching a place that is new and meaningful. And if all goes well, you get to share that sense of elevation with your readers (your audience). That is a marvelous culmination that can be achieved in no other way."                   (音楽でも小説でも、一番のベースになるのはリズムだ。自分の文体が、気持ちのよい、自然でしっかりしたリズムを持っていなくてはならない。そうでないと、人は作品を読み続けてはくれないだろう。僕はリズムの大切さを音楽から、しかもジャズから学び取った。次にくるのがメロディだ。文学でいうと、リズムに合う言葉の配列ということになるだろうか。言葉がリズムにぴたりと合って、なめらかで美しければ申し分ない。そのあとにハーモニーが来る。それは、心の中に響く、言葉を支える音だ。それから、僕が一番好きなところ、即興演奏。何らかの特別な経路を通じて、物語が内側から縦横無尽に湧き出てくる。僕はその流れに身を任せていればいい。そして、最後に、でもこれがおそらく最も重要だと思われること。作品を完成させる上で、高みを経験することだ。「演奏」を終えるにあたって、これまでにない、意味のあることを成し遂げたのだという感覚があること。このすべてがうまくいけば、自分の読者とある種の昂揚感のようなものを共有することができる。この感覚は、独特のすばらしいもので、他の何をもってしても味わうことはできないものなのだ。) 

学生時代から20年以上に渡って、村上春樹の書くものを読んで来ました。長編も中編も短編も、エッセイもノンフィクションも翻訳も。新刊が出るのを心待ちにして、出ないときは前のを読み返して。なぜそうなってしまうのか。様々な理由が、もちろん考えられるのですが、やはり、一番大きく大切な理由は、彼がここに書いていること、そのままだと思います。毎日の余白で、音楽を楽しむのとまるで同じ感覚で、彼の書くものを楽しんでいるから。彼の本を手に取り、その文体に耳をすませる。そこに、彼の奏でる言葉からのリズムとメロディとハーモニーがあり、それを楽しむのに何にも代えがたい喜びがあるから。そして、特に長編小説には、「これまでにない、意味のあることを成し遂げた」という感覚をまさに彼と共有したという実感があります。確かに、これは「すばらしく、他の何をもってしても味わうことはできない」と思う。理屈よりも先に、音楽的な感覚で捉えるせいか、村上春樹の文章には、大変な中毒性があるような気がします。

引用 The quoted part is from:
Murakami, Haruki. "Jazz Messenger." The New York Times. 2007.

2014年6月29日日曜日

音楽と文体(1)~Maya Angelow の言葉から~

読書を娯楽として考えたときに、私たちが楽しんでいるのは、意味以上に「音」なのではないか?文体の奏でるリズムやテンポ、時には疾走感なんかを、音楽を聴くように味わうことこそが、文章を読むことの醍醐味なのではないか、とそう思っています。

Maya Angelou という方をご存知でしょうか?残念ながら今年の5月28日に鬼籍に入られたようなのですが、恥ずかしながら、実はそれまで、この方のことは知りませんでした。5月28日のツイッターに、彼女を悼む言葉がひっきりなしにツイートされ、それで初めて知るようになりました。ウィキペディアによると、「アメリカ合衆国の活動家、詩人、歌手、女優」であり、「マーティン・ルーサー・キング・ジュニアと共に公民権運動に参加。1993年、ビル・クリントンのアメリカ合衆国大統領就任式にて自作の詩を朗読」などされたようです。ツイッターの様子から、この女性がアメリカの方々に敬愛されていたであろうことが、大変感じられました。

                  

この時に紹介されていた、The Paris Review 1990年秋号のインタビューの中で、Maya Angelouが文章の「音」について言及しています。ちょっと、「我が意を得たり」とうれしくなってしまったので、ここで取り上げることにしました。


INTERVIEWER
"You once told me that you write lying on a made-up bed with a bottle of sherry, a dictionary, Roget’s Thesaurus, yellow pads, an ashtray, and a Bible. What’s the function of the Bible?"
(前に一度、きちんと整えられたベッドに、シェリー酒のボトル、辞書、ロジェのシソーラス、黄色のノートパッド、灰皿、それから聖書をもって、寝転んでお書きになるとおっしゃっていましたね。聖書は何に使われるのでしょう?)

MAYA ANGELOU
"The language of all the interpretations, the translations, of the Judaic Bible and the Christian Bible, is musical, just wonderful. I read the Bible to myself; I’ll take any translation, any edition, and read it aloud, just to hear the language, hear the rhythm, and remind myself how beautiful English is. Though I do manage to mumble around in about seven or eight languages, English remains the most beautiful of languages. It will do anything."
(ユダヤ教の聖典やキリスト教の聖書の、あらゆるすべての通訳というか翻訳の言語は、音楽的で、ただただ素晴らしい。自分に聖書を読んでやるんです。どの翻訳でも、何版でもいいから手に取って、声に出して読んでみる。その言語を聞いて、リズムに耳を傾けて、そして、改めて思うの。英語はなんて美しいんだろうって。私はやろうと思えば、大体7か国語か8か国語でなんとか読み上げたりできるのですが、やはり英語が一番美しいと思います。英語でなんでもできます。)
INTERVIEWER
"Do you transfer that melody to your own prose? Do you think your prose has that particular ring that one associates with the King James version?"
(そのメロディーをあなたの詩に生かすのですか?あなたの詩に、欽定訳聖書の影響が感じられるような特別な印象があると思われますか?)

ANGELOU
"I want to hear how English sounds; how Edna St. Vincent Millay heard English. I want to hear it, so I read it aloud. It is not so that I can then imitate it. It is to remind me what a glorious language it is. Then, I try to be particular and even original. It’s a little like reading Gerard Manley Hopkins or Paul Laurence Dunbar or James Weldon Johnson. "
(英語がどんな音を奏でているか聞きたいんです。エドナ・ミレーの耳にはどんな風に英語は聞こえていたんだろうって。実際に自分の耳で聴きたくて、声に出して読んでみるのよ。それを真似ようというようなことではないの。ただ、この言葉がどんなに輝いている言葉だったかを確認したいだけ。そうすると、自分が特別になれるような気がするし、他の人には無い、私にしか無いものになれそうな気がします。ジェラード・マンリー・ホプキンズとか、ボール・ローレンス・ダンバーとか、ジェイムズ・ウェルダン・ジョンソンの詩を読むのにちょっと似ているかな。)

引用:The quoted part is from:
Angelou, Maya. "The Art of Fiction No. 119." the Paris Review 1990. 

http://www.theparisreview.org/interviews/2279/the-art-of-fiction-no-119-maya-angelou 

2014年3月31日月曜日

リルケからの励ましの言葉

生きていると、これは謎だと思う瞬間はなかなか多くあるもので、困ったものです。わりに頻繁にあるので、もはや、あまり気にならなくなっているほど。私の場合はそうです。ちょっとしたコミュニケーションの齟齬で、「こういう場合はどうするのが正しいのか」と思うようなものから、根本的に生きる姿勢というか態度というか、そういうものが問われるような大きな問題に至るまで、様々あります。その時々で、今後はああしよう、こうしよう、それは、そういうことか、などと思ったりもしますが、それが本当に正しいものかどうか。よくわかりません。

       
"I beg you, to have patience with everything unresolved in your heart and to try to love the questions themselves as if they were locked rooms or books written in a very foreign language. Don’t search for the answers, which could not be given to you now, because you would not be able to live them. And the point is to live everything. Live the questions now. Perhaps then, someday far in the future, you will gradually, without even noticing it, live your way into the answer."                                 (お願いがあります。じっと我慢して、答えがわからないまま、全てを胸にしまっておいてください。そして、わからないことそれ自体を大切にするように心がけてください。まるで鍵がかかって開かない部屋だとか、全く理解できない外国語で書かれた本を持っているんだと思って。答えを見つけようとしなくてもよいのです。どうせすぐには答えを与えてはもらえないはずです。なぜなら、すぐにはその問題を生きることはできないものだから。そう、全てを生きるということが大事なのです。わからない問題を、今、生きてください。たぶんそうしているうちに、ずっと先になっていつか、気づかないままだんだんと、その答えに向かって進んでいることになるでしょう。) 
                                  Rainer Maria Rilke (1903) Letters to a Young Poet(public library

この一節を見つけた時には、何だか嬉しかったし、励まされました。わからないものはわからないままにして、無理に答えを出して筋を通そう、などと思わなくてよいと思うと、ちょっとほっとします。誠実に生きていればそれがいずれ、答えになる・・・。そんなものなのでしょうか。そうだといいな、と思いました。

引用 The quoted part and the book are found in:
Brain Pickings http://www.brainpickings.org/index.php/2012/06/01/rilke-on-questions/

2014年2月14日金曜日

フランクルの「愛するということ」の定義

先日、高校生の息子が、英語の宿題の長文読解の問題を解いていました。それは、著書、『夜と霧』で、アウシュビッツの強制収容所での体験を描いた、オーストリアの心理学者、ヴィクトール・ランクルについて書かれた文章でした。

「寒い冬の日に、他の囚人たちと歩かされ続けていたヴィクトールは、気力と体力の限界に、思わずその場に崩れ落ちてしまう。もはや、これまでか、と思った瞬間、彼の意識は未来へ飛んで、聴衆に『私は再び立って歩き始めた』と語る自分の姿を思い描いていた。結局彼は、生き延びて、自分が想像した通り、何千人もの観衆の前で、収容所での経験を語る機会に恵まれるのである」、という内容でした。(前回投稿したブルース・スプリングスティーンのインタビューを思い出します。)



こういうのをシンクロニシティというのでしょうか。ちょうど同じ頃、ツイッターで、やはりフランクルの書いたエッセイを紹介する記事が流れてきました。あ、フランクル?と目に留まったのは、言うまでもありません。バレンタインデーではありますし、その記事の中から、フランクルの「愛するということ」の定義を。

"Love is the only way to grasp another human being in the innermost core of his personality.  No one can become fully aware of the very essence of another human being unless he loves him.  By his love he is enabled to see the essential traits and features in the beloved person; and even more, he sees that which is potential in him, which is not yet actualized but yet ought to be actualized.  Furthermore, by his love, the loving person enables the beloved person to actualize these potentialities.  By making him aware of what he can be and of what he should become, he makes these potentialities come true."                                   
(人を愛するということは、自分とは別の人間を、その人の人格の最も深い芯のところで理解する、 唯一の方法である。その人を愛さない限り、自分ではない人間の、まさにその本質を完全に見出すことなど、誰にもできない。愛するからこそ、その人だけが持つ性質や特徴がわかるようになるのである。そしてさらに、その人の中に眠っている、まだ実現していないけれど、 いずれは実現する、そんな可能性までもが見えてくる。しかも、愛することで、相手の可能性が開花するのを援助できる。その人は、自分がどうなるか、どうなるべきかに気づいて、自分の可能性を実現していくのである。)

フランクルの愛の定義を、いきなり卑近な話にもっていってしまって申し訳ないのですが、ファンというのはすべからくこういうものかもしれません。ある対象にひきつけられて、「これはすごい」と思う。何度も何度もそこに向きあって、どこがどうすごいのか考える。この素晴らしさを他の人にも知らせたい。きっともっとたくさんの人が、このすごさをわかってくれるはずだと思う。そこで描かれるビジョンに応えるような形で、才能は大きく開花していく・・・。

そもそも人は、なぜ、愛する人を理解したいと思うのでしょうか。他の誰よりも、愛する人のことを深く間違いなく理解したい、という思いをもってしまうのでしょうか。

もしかすると、誰かを愛してその人を理解しようと試行錯誤するプロセスは、自分を理解して、自分がこの人生で何をすべきかを考えるために、必要なことなのかもしれない、と思ったりします。私たちは自分以外なら、誰もの姿をこの目で見ることができるのに、自分の姿だけは、鏡がないと見ることができないように宿命づけられています。それと同じように、相応の誰かの力を借りて映し出さなくては、自分の内面をのぞきこむことはできないのかもしれません。そう考えると、愛する人を理解しようとすることは、そのまま、自分にとっても、内面の死活問題であるのは間違いなく、愛する人を理解したいと切望して、右往左往している時のあの切迫した気持ちにも、合点がいくように思います。

"Love goes very far beyond the physical person of the beloved.  It finds its deepest meaning in his spiritual being, his inner self.  Whether or not he is actually present, whether or not he is still alive at all, ceases somehow  to be of importance."                                                                            
(愛は愛する人の実体をはるかに超える。その人の内側の、「魂」という存在に、愛のもっとも深い意味はある。そう考えると目の前にその人がいるかいないか、まだ生きているかいないか、というようなことさえ、意味を持たなくなってくるのだ。)