2014年2月14日金曜日

フランクルの「愛するということ」の定義

先日、高校生の息子が、英語の宿題の長文読解の問題を解いていました。それは、著書、『夜と霧』で、アウシュビッツの強制収容所での体験を描いた、オーストリアの心理学者、ヴィクトール・ランクルについて書かれた文章でした。

「寒い冬の日に、他の囚人たちと歩かされ続けていたヴィクトールは、気力と体力の限界に、思わずその場に崩れ落ちてしまう。もはや、これまでか、と思った瞬間、彼の意識は未来へ飛んで、聴衆に『私は再び立って歩き始めた』と語る自分の姿を思い描いていた。結局彼は、生き延びて、自分が想像した通り、何千人もの観衆の前で、収容所での経験を語る機会に恵まれるのである」、という内容でした。(前回投稿したブルース・スプリングスティーンのインタビューを思い出します。)



こういうのをシンクロニシティというのでしょうか。ちょうど同じ頃、ツイッターで、やはりフランクルの書いたエッセイを紹介する記事が流れてきました。あ、フランクル?と目に留まったのは、言うまでもありません。バレンタインデーではありますし、その記事の中から、フランクルの「愛するということ」の定義を。

"Love is the only way to grasp another human being in the innermost core of his personality.  No one can become fully aware of the very essence of another human being unless he loves him.  By his love he is enabled to see the essential traits and features in the beloved person; and even more, he sees that which is potential in him, which is not yet actualized but yet ought to be actualized.  Furthermore, by his love, the loving person enables the beloved person to actualize these potentialities.  By making him aware of what he can be and of what he should become, he makes these potentialities come true."                                   
(人を愛するということは、自分とは別の人間を、その人の人格の最も深い芯のところで理解する、 唯一の方法である。その人を愛さない限り、自分ではない人間の、まさにその本質を完全に見出すことなど、誰にもできない。愛するからこそ、その人だけが持つ性質や特徴がわかるようになるのである。そしてさらに、その人の中に眠っている、まだ実現していないけれど、 いずれは実現する、そんな可能性までもが見えてくる。しかも、愛することで、相手の可能性が開花するのを援助できる。その人は、自分がどうなるか、どうなるべきかに気づいて、自分の可能性を実現していくのである。)

フランクルの愛の定義を、いきなり卑近な話にもっていってしまって申し訳ないのですが、ファンというのはすべからくこういうものかもしれません。ある対象にひきつけられて、「これはすごい」と思う。何度も何度もそこに向きあって、どこがどうすごいのか考える。この素晴らしさを他の人にも知らせたい。きっともっとたくさんの人が、このすごさをわかってくれるはずだと思う。そこで描かれるビジョンに応えるような形で、才能は大きく開花していく・・・。

そもそも人は、なぜ、愛する人を理解したいと思うのでしょうか。他の誰よりも、愛する人のことを深く間違いなく理解したい、という思いをもってしまうのでしょうか。

もしかすると、誰かを愛してその人を理解しようと試行錯誤するプロセスは、自分を理解して、自分がこの人生で何をすべきかを考えるために、必要なことなのかもしれない、と思ったりします。私たちは自分以外なら、誰もの姿をこの目で見ることができるのに、自分の姿だけは、鏡がないと見ることができないように宿命づけられています。それと同じように、相応の誰かの力を借りて映し出さなくては、自分の内面をのぞきこむことはできないのかもしれません。そう考えると、愛する人を理解しようとすることは、そのまま、自分にとっても、内面の死活問題であるのは間違いなく、愛する人を理解したいと切望して、右往左往している時のあの切迫した気持ちにも、合点がいくように思います。

"Love goes very far beyond the physical person of the beloved.  It finds its deepest meaning in his spiritual being, his inner self.  Whether or not he is actually present, whether or not he is still alive at all, ceases somehow  to be of importance."                                                                            
(愛は愛する人の実体をはるかに超える。その人の内側の、「魂」という存在に、愛のもっとも深い意味はある。そう考えると目の前にその人がいるかいないか、まだ生きているかいないか、というようなことさえ、意味を持たなくなってくるのだ。) 

2014年2月1日土曜日

ブルース・スプリングスティーンのインタビューから

先日、ツイッター上に流れてきた言葉に、ふと目がとまりました。
興味を引かれるままにリンクを辿っていくと、それは、米国の公共ラジオNPRで1月15日付
取り上げられていた、ブルース・スプリングスティーンのインタビューからの言葉でした。 



Ann Powers: 
I love the dream aspect of what you do. And I'm wondering if you can talk about the role of what dream and fantasy play in what you do. 
(されているお仕事に、「夢」のような側面があるのが好きです。作品の中で夢や想像がどんな役割を果たしているか、教えていただけませんか。)  
Bruce Springsteen: 
It's everything, of course.  I mean, that's all we're doing, really, we're living in the world but it's all sort of dreams and it's all illusion. It's theater; it's not real. We're making up stories, you know, and people tend to run into you and believe you are your characters.  And I suppose the funny thing is the longer you go, you do become sort of some version of them.  You both diverge from them, you know, you live, but you also permanently inhabit that geography and that mental space and so you do morph a little bit. We do become what we imagine. 
(それが全てなんだよ。当然だよ。というか、僕たちがやってることはそれだけだよ、本当に。僕たちはこの世界に生きているんだけど、この世界はすべて夢みたいなもので、すべては幻想なんだ。ドラマであって、現実ではない。僕たちは物語を作っているだろう?そして、みんなはその中にこちらの姿をみてしまう。そして、僕たちのことを、こちらが設定した登場人物そのものだと信じてしまうんだ。そして、おもしろいと思うのは、ずっと、そんなことを続けていると、なんとなく、その中の誰かに本当になってしまうってことだよ。本当の自分も虚構の自分も、どちらもそこから派生したものになるんだ。自分の人生を生きている。その一方で、別の地平、しかもそれは(実体のない)精神的なもの、そういう空間に、永遠に存在することになってしまって、さらにそのことが、自分自身を少し変えてしまう。僕たちは、自分が想像するものになるんだ。)
作家や漫画家、作詞家など、創作に携わる方々が、「作品の登場人物はフィクションであって、
自分の人格とは違うのだ」と弁明されるのを、これまでに、幾度となく目に(耳に)したことが
あります。しかし、このブルース・スプリングスティーンの「自分の作りあげたフィクションの世界に、
やがて自分が影響を受けてしまう」という見方。これはなかなかおもしろい。創作が産み落と
された時には、単に虚構であったものが、時の洗礼を受けることで、図らずも自分自身の実在に
働きかけるようになる。

最近、巷でサッカーの本田圭佑選手の、小学校時代の卒業文集が話題になっていると
聞きました。「世界一のサッカー選手になる。」「セリエAに入団します。レギュラーになって、
10番で活躍します」と書いていたそうで、前人未踏の、おとぎ話のような少年の夢が、15年
という時を経て、まさに実現してしまう。この驚愕の事実を思うと、"We do become what we
imagine."(「僕たちは自分が想像するものになるんだ。」)と語ったブルース・スプリングスティーン
の言葉が、にわかに現実味を帯びてくるように思いました。