そう考えると、私達にとって物語というものがどれだけ大切なものか、と思えてくるのですが、Paris ReviewのJohn Edgar Wideman(ジョン・エドガー・ワイドマン) のインタビューの記事の中で、こういうフレーズを目にしました。
"All stories are true."
実は、John Edgar Wideman(ジョン・エドガー・ワイドマン) という方についてはそれまで存じ上げていませんでした。確認してみると、ジョン・エドガー・ワイドマンはアメリカ人の作家で、ブラウン大学で教鞭も取っておられるようです。1991年にはPhiladelphia Fireでアメリカ図書賞などを受賞されており、他の作品も数々の文学賞の候補になるなどの活躍をされている方だということです。日本では3冊ほどの翻訳書が出版されているようです。
INTERVIEWER(インタビュアー)
"There’s a phrase that comes up in a lot of your books: “All stories are true.” What do you mean by that, and how does it relate to your work?"
(「あなたの本に何度も出てくるフレーズがありますね。「すべての物語は真実である」この言葉にはどういう意味が込められているのでしょう?そして、あなたの作品にどうかかわっているのでしょうか?」)
WIDEMAN(ワイドマン)「すべての物語は真実である」・・・きっとそうなのでしょう。そうだと思わせる重みのあるフレーズだと思います。しかし、本当にこのフレーズは重い。たとえば、ある物語は真実で、ある物語はでたらめ、だとすると、嘘もあるけど真実もある、と信じられます。でも、すべての物語が真実であるとすると、それは同時にすべての物語はでたらめである、という「物語」も真実になってしまいます。まさにパラドックス。そう思うと、今まで真実だと思ってきた私自身の「物語」にも、不信感のようなものが生まれてきます。そして、この限られた人生に、いったいどんな意味を見出して生きていけばよいのか、わからなくなってくるような気がします。
"The source of that phrase is Chinua Achebe, and Achebe’s source is Igbo culture, traditional West African philosophy, religion, et cetera. It’s an Old World idea and it’s very mysterious. Rather than say I understand it, let’s say I’ve been writing under the star or the question mark of that proverb for a long time and I think it’s something that challenges. You peel one skin and there’s another skin underneath it—“all stories are true.” It was a useful means to point out that you don’t have a majority and a minority culture, you don’t have a black and a white culture—with one having some sort of privileged sense of history and the other a latecomer and inarticulate—you have human beings who are all engaged in a kind of never-ending struggle to make sense of their world. “All stories are true” then suggests a kind of ultimate democracy. It also suggests a kind of chaos. If you say, Wideman’s an idiot, and someone else says, No, he’s a genius, and all stories are true, then who is Wideman? It’s a challenge. A paradox. For me it’s the democratic aspect of it that’s so demanding, and it’s been a kind of guide for me in this sense. I know if I can capture certain voices I heard in Homewood—even though those people are not generally remembered, even though they never made a particular mark on the world—at certain times and in certain places and in certain tones those voices could tell us everything we need to know about being a human being."
(「このフレーズは、チヌア・アチェべの言葉から来てます。そして、アチェベはイボ文化、伝統的な西アフリカの哲学、宗教などから影響を受けているのです。それは、旧世界の思想で、とても神秘的なものです。それを理解したから、というよりも、ずっとその星の下で執筆を続けてきたから、とか、長い間このフレーズの謎を考えてきたから、と言いたいところです。それは、何かこちらにはたらきかけてくるような言葉だと思うのです。表面の皮をむいたら、その下にさらに皮があった、というような。 ―「すべての物語は真実である」― 多数派の文化、とか、少数派の文化などというものは無いし、黒人の文化とか、白人の文化などというものもない。 ―歴史の中で、一方が特権的な感覚を持つようになり、遅れてやってきたもう一方が、物を言えなくなっている― 皆、自分の世界に何とか意味を見出そうとして、終わりのない努力を続けている、そんな人間がいるだけなのだ。そういったことを取り上げるのに、そのフレーズは有効だったのです。それから、「すべての物語は真実である」という言葉には、究極の民主主義のようなものが感じられます。また、何か混沌としたものも。たとえば、ワイドマンなんて馬鹿だよ、とあなたが言ったとして、それに、誰かがいや彼は天才だよ、と言ったとする。そしてそのすべての物語が真実だということになれば、では、ワイドマンってどんなやつだ?ということになる。そういうはたらきかけです。逆説的なものです。私には、そういう風に厳しく迫って来ることこそが、この言葉の民主主義的な側面だと思えます。そういう意味で、この言葉は、私をこれまで導いてきてくれたのです。もし私がホームウッドで耳にする様々な声をとらえることができるなら、その声が、ある時、ある場所で、ある言い方で、私たちが1人の人間であるために必要な、あらゆることを教えてくれるとわかるのです。たとえ、その声の持ち主が、たいてい、忘れ去られてしまう人たちで、この世界に何か足跡を残すようなことはないとしても。」)
真実かどうかなんて、結局問題ではないということでしょうか。その「物語」が自分の心にすとんと落ちる、とか、他のどの「物語」よりも美しいと思える、とか、そういうことでしか判断できない、ということなのでしょうか。「すべての物語は真実である」・・・・こういうことだ、と言えるようになるまで、随分時間のかかりそうなフレーズに出会ってしまいました。
The quoted part is from;
John Edgar Wideman, The Art of Fiction No. 171 in The Paris Review
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