小学生の頃の話です。2時間目と3時間目の授業の間には、少し長めの20分間の休憩の時間があり、その時間には皆、外に出てひとしきり体を動かして遊ぶことが常でした。入学してすぐの5月頃だったでしょうか。友達3人と外に出て、「渡り棒」か何かの遊具の周りで遊んでいたら、遊びに夢中になってしまって、休み時間が終わったことにまるで気づくことができませんでした。ふと見渡すと、グラウンド中にいた子供たちは一人もおらず、自分たち3人だけが取り残されていました。急いで教室に戻って謝って、先生の顔色を窺うと、先生などは慣れたもので、はいはい、という感じで、特に咎められることもなく、何事もなかったように授業に入っていきました。
その時のことを、折にふれ、思い出します。遊びに夢中になっていた私の意識(他の2人の友達も、おそらく)は、完璧な「集中」を経験していたのだと思うのです。大人になった今だったら、歓声をあげて走り回っていた100人からの子供たちが一斉に周囲から姿を消したことに、気づかないということができないはずです。夢中になって絵を描いたり、本や漫画に没頭したり、一心に蝶々やとんぼを追いかけたり、天井のしみや壁紙のパターンを目で追ったり。子ども時代の自分は、興味を引かれるままに、自分の行動や周囲の世界に、難なく入り込んでしまっていました。
"By concentration, I mean a particular state of awareness: penetrating, unified, and focused, yet also permeable and open. This quality of consciousness, though not easily put into words, is instantly recognizable. Aldous Huxley described it as the moment the doors of perception open; James Joyce called it epiphany. The experience of concentration may be quietly physical — a simple, unexpected sense of deep accord between yourself and everything. It may come as the harvest of long looking and leave us, as it did Wordsworth, a mind thought “too deep for tears.” Within action, it is felt as a grace state: time slows and extends, and a person’s every movement and decision seem to partake of perfection. Concentration can also be placed into things — it radiates undimmed from Vermeer’s paintings, from the small marble figure of a lyre-player from ancient Greece, from a Chinese three-footed bowl — and into musical notes, words, ideas. In the wholeheartedness of concentration, world and self begin to cohere. With that state comes an enlarging: of what may be known, what may be felt, what may be done."
(私がここで言う「集中」というのは、ある特定の状態の意識のことです。はっきりと鋭く、1つにまとまって一点を見据えている。でも同時に透明で開かれてもいる。このような意識の状態というのは、言葉では説明しづらいものですが、すぐにそれだとわかります。オルダス・ハクスリーは、それを、「認知の扉が開く瞬間」と表し、ジェームズ・ジョイスは、「エピファニー(突然の悟り)」と呼んでいます。「集中」は、静かに起こる、でも、物理的な経験です。自分自身とすべてのものが、ただ思いがけず、深く結びつく感覚です。それは、ずっと長い間見つめてきたことに対する実り、という形でやってきて、そして、詩人のワーズワースの言葉と同じように、私たちに「涙も出ないほど奥深いところで(心が動く)」意識を残していくのかもしれません。行動している時には、それは、優美な状態として感じられます。時がゆったりと流れ、広がっていき、あらゆる動きと判断が完璧であるように思われるのです。「集中」はまた、物の中に起こることもある。フェルメールの絵画や、古代ギリシャの、竪琴を弾いている小さな大理石の人形、中国の3本あしのついた陶器、などからは、はっきりと伝わってくるし、音符や言語や思考に起こることもあります。「集中」して全身全霊をかけると、世界と自分とが一つになり始めます。そのような状態になると、理解されるはずのものも、感じられるはずのものも、なされるはずのものも、広がっていくのです。)これは、Brainpickingで記事として取り上げられていた、詩人のJane Hirshfield(ジェーン・ハーシュフィールド)が「集中」について語った言葉です。
大人になると、自分の周りの状況に常に気を配るようになります。それができるようになるし、そうすることをまわりに期待されもする。それで、人とコミュニケーションを取ったり、物事を手際良く進めたりするのは、うまくできるようにはなるのですが、時々、あの子供のころの完璧な「集中」に思いを馳せてしまいます。世界と自分が一つになって、「現実」に自分の存在が無くなってしまうかのようなあの感じ・・・。今でもよほど好きなこととか、ものすごく体調が良い時とかには、似たような感じになることもあります。あらためて考えてみたこともありませんでしたが、実は、心の奥に潜んでいる「私」は、その状態を求めてやまず、何か全身全霊を注いでしまうものは無いか、常に探しているような気がします。依存症だとか、自分探しだとか、そういったことは、みな、子どもの頃の完璧な「集中」の充実感を求めてのことなのかもしれません。
The quoted part is from:
The Effortless Effort of Creativity: Jane Hirshfield on Storytelling, the Art of Concentration, and Difficulty as a Consecrating Force of Creative Attention
https://www.brainpickings.org/2016/07/21/jane-hirshfield-concentration/
Wordsworth, "Ode" ("Intimations of Immortality") 1807 ver. (日本語訳) in 冨樫 剛『English Poetry in Japanese』
http://blog.goo.ne.jp/gtgsh/e/eb279c4b2cf701ed4bb95109a5752fba
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