2016年12月4日日曜日

「すべての物語は真実である」-John Edgar Wideman(ジョン・エドガー・ワイドマン) の言葉から―

以前、沈む夕日と舞い降りる雪の意味-村上春樹の言葉から- という投稿で、人間はあらゆるもの事に、意味づけをせずにはいられない存在で、「出会う人、住んでいる場所、生まれながらの境遇、突然降りかかってくる出来事。心を開いて、発想を柔軟にして、そういった物事に一つ一つ意味を見いだして、自分という存在の意味をしっかりと受け止めてくれる物語を作っていく。そうやって、前に進んでいくしかないのではないか」と書きました。

そう考えると、私達にとって物語というものがどれだけ大切なものか、と思えてくるのですが、Paris ReviewのJohn Edgar Wideman(ジョン・エドガー・ワイドマン) のインタビューの記事の中で、こういうフレーズを目にしました。

       "All stories are true."

 実は、John Edgar Wideman(ジョン・エドガー・ワイドマン) という方についてはそれまで存じ上げていませんでした。確認してみると、ジョン・エドガー・ワイドマンはアメリカ人の作家で、ブラウン大学で教鞭も取っておられるようです。1991年にはPhiladelphia Fireでアメリカ図書賞などを受賞されており、他の作品も数々の文学賞の候補になるなどの活躍をされている方だということです。日本では3冊ほどの翻訳書が出版されているようです。



INTERVIEWER(インタビュアー)
"There’s a phrase that comes up in a lot of your books: “All stories are true.” What do you mean by that, and how does it relate to your work?"
(「あなたの本に何度も出てくるフレーズがありますね。「すべての物語は真実である」この言葉にはどういう意味が込められているのでしょう?そして、あなたの作品にどうかかわっているのでしょうか?」) 
WIDEMAN(ワイドマン)
"The source of that phrase is Chinua Achebe, and Achebe’s source is Igbo culture, traditional West African philosophy, religion, et cetera. It’s an Old World idea and it’s very mysterious. Rather than say I understand it, let’s say I’ve been writing under the star or the question mark of that proverb for a long time and I think it’s something that challenges. You peel one skin and there’s another skin underneath it—“all stories are true.” It was a useful means to point out that you don’t have a majority and a minority culture, you don’t have a black and a white culture—with one having some sort of privileged sense of history and the other a latecomer and inarticulate—you have human beings who are all engaged in a kind of never-ending struggle to make sense of their world. “All stories are true” then suggests a kind of ultimate democracy. It also suggests a kind of chaos. If you say, Wideman’s an idiot, and someone else says, No, he’s a genius, and all stories are true, then who is Wideman? It’s a challenge. A paradox. For me it’s the democratic aspect of it that’s so demanding, and it’s been a kind of guide for me in this sense. I know if I can capture certain voices I heard in Homewood—even though those people are not generally remembered, even though they never made a particular mark on the world—at certain times and in certain places and in certain tones those voices could tell us everything we need to know about being a human being."
(「このフレーズは、チヌア・アチェべの言葉から来てます。そして、アチェベはイボ文化、伝統的な西アフリカの哲学、宗教などから影響を受けているのです。それは、旧世界の思想で、とても神秘的なものです。それを理解したから、というよりも、ずっとその星の下で執筆を続けてきたから、とか、長い間このフレーズの謎を考えてきたから、と言いたいところです。それは、何かこちらにはたらきかけてくるような言葉だと思うのです。表面の皮をむいたら、その下にさらに皮があった、というような。 ―「すべての物語は真実である」― 多数派の文化、とか、少数派の文化などというものは無いし、黒人の文化とか、白人の文化などというものもない。 ―歴史の中で、一方が特権的な感覚を持つようになり、遅れてやってきたもう一方が、物を言えなくなっている― 皆、自分の世界に何とか意味を見出そうとして、終わりのない努力を続けている、そんな人間がいるだけなのだ。そういったことを取り上げるのに、そのフレーズは有効だったのです。それから、「すべての物語は真実である」という言葉には、究極の民主主義のようなものが感じられます。また、何か混沌としたものも。たとえば、ワイドマンなんて馬鹿だよ、とあなたが言ったとして、それに、誰かがいや彼は天才だよ、と言ったとする。そしてそのすべての物語が真実だということになれば、では、ワイドマンってどんなやつだ?ということになる。そういうはたらきかけです。逆説的なものです。私には、そういう風に厳しく迫って来ることこそが、この言葉の民主主義的な側面だと思えます。そういう意味で、この言葉は、私をこれまで導いてきてくれたのです。もし私がホームウッドで耳にする様々な声をとらえることができるなら、その声が、ある時、ある場所で、ある言い方で、私たちが1人の人間であるために必要な、あらゆることを教えてくれるとわかるのです。たとえ、その声の持ち主が、たいてい、忘れ去られてしまう人たちで、この世界に何か足跡を残すようなことはないとしても。」)
「すべての物語は真実である」・・・きっとそうなのでしょう。そうだと思わせる重みのあるフレーズだと思います。しかし、本当にこのフレーズは重い。たとえば、ある物語は真実で、ある物語はでたらめ、だとすると、嘘もあるけど真実もある、と信じられます。でも、すべての物語が真実であるとすると、それは同時にすべての物語はでたらめである、という「物語」も真実になってしまいます。まさにパラドックス。そう思うと、今まで真実だと思ってきた私自身の「物語」にも、不信感のようなものが生まれてきます。そして、この限られた人生に、いったいどんな意味を見出して生きていけばよいのか、わからなくなってくるような気がします。

真実かどうかなんて、結局問題ではないということでしょうか。その「物語」が自分の心にすとんと落ちる、とか、他のどの「物語」よりも美しいと思える、とか、そういうことでしか判断できない、ということなのでしょうか。「すべての物語は真実である」・・・・こういうことだ、と言えるようになるまで、随分時間のかかりそうなフレーズに出会ってしまいました。
The quoted part is from;
John Edgar Wideman, The Art of Fiction No. 171 in The Paris Review 

2016年10月30日日曜日

完璧な「集中」の充実感 ―ジェーン・ハーシュフィールドの言葉から―

小学生の頃の話です。2時間目と3時間目の授業の間には、少し長めの20分間の休憩の時間があり、その時間には皆、外に出てひとしきり体を動かして遊ぶことが常でした。入学してすぐの5月頃だったでしょうか。友達3人と外に出て、「渡り棒」か何かの遊具の周りで遊んでいたら、遊びに夢中になってしまって、休み時間が終わったことにまるで気づくことができませんでした。ふと見渡すと、グラウンド中にいた子供たちは一人もおらず、自分たち3人だけが取り残されていました。急いで教室に戻って謝って、先生の顔色を窺うと、先生などは慣れたもので、はいはい、という感じで、特に咎められることもなく、何事もなかったように授業に入っていきました。

その時のことを、折にふれ、思い出します。遊びに夢中になっていた私の意識(他の2人の友達も、おそらく)は、完璧な「集中」を経験していたのだと思うのです。大人になった今だったら、歓声をあげて走り回っていた100人からの子供たちが一斉に周囲から姿を消したことに、気づかないということができないはずです。夢中になって絵を描いたり、本や漫画に没頭したり、一心に蝶々やとんぼを追いかけたり、天井のしみや壁紙のパターンを目で追ったり。子ども時代の自分は、興味を引かれるままに、自分の行動や周囲の世界に、難なく入り込んでしまっていました。



"By concentration, I mean a particular state of awareness: penetrating, unified, and focused, yet also permeable and open. This quality of consciousness, though not easily put into words, is instantly recognizable. Aldous Huxley described it as the moment the doors of perception open; James Joyce called it epiphany. The experience of concentration may be quietly physical — a simple, unexpected sense of deep accord between yourself and everything. It may come as the harvest of long looking and leave us, as it did Wordsworth, a mind thought “too deep for tears.” Within action, it is felt as a grace state: time slows and extends, and a person’s every movement and decision seem to partake of perfection. Concentration can also be placed into things — it radiates undimmed from Vermeer’s paintings, from the small marble figure of a lyre-player from ancient Greece, from a Chinese three-footed bowl — and into musical notes, words, ideas. In the wholeheartedness of concentration, world and self begin to cohere. With that state comes an enlarging: of what may be known, what may be felt, what may be done." 
(私がここで言う「集中」というのは、ある特定の状態の意識のことです。はっきりと鋭く、1つにまとまって一点を見据えている。でも同時に透明で開かれてもいる。このような意識の状態というのは、言葉では説明しづらいものですが、すぐにそれだとわかります。オルダス・ハクスリーは、それを、「認知の扉が開く瞬間」と表し、ジェームズ・ジョイスは、「エピファニー(突然の悟り)」と呼んでいます。「集中」は、静かに起こる、でも、物理的な経験です。自分自身とすべてのものが、ただ思いがけず、深く結びつく感覚です。それは、ずっと長い間見つめてきたことに対する実り、という形でやってきて、そして、詩人のワーズワースの言葉と同じように、私たちに「涙も出ないほど奥深いところで(心が動く)」意識を残していくのかもしれません。行動している時には、それは、優美な状態として感じられます。時がゆったりと流れ、広がっていき、あらゆる動きと判断が完璧であるように思われるのです。「集中」はまた、物の中に起こることもある。フェルメールの絵画や、古代ギリシャの、竪琴を弾いている小さな大理石の人形、中国の3本あしのついた陶器、などからは、はっきりと伝わってくるし、音符や言語や思考に起こることもあります。「集中」して全身全霊をかけると、世界と自分とが一つになり始めます。そのような状態になると、理解されるはずのものも、感じられるはずのものも、なされるはずのものも、広がっていくのです。)
これは、Brainpickingで記事として取り上げられていた、詩人のJane Hirshfield(ジェーン・ハーシュフィールド)が「集中」について語った言葉です。

大人になると、自分の周りの状況に常に気を配るようになります。それができるようになるし、そうすることをまわりに期待されもする。それで、人とコミュニケーションを取ったり、物事を手際良く進めたりするのは、うまくできるようにはなるのですが、時々、あの子供のころの完璧な「集中」に思いを馳せてしまいます。世界と自分が一つになって、「現実」に自分の存在が無くなってしまうかのようなあの感じ・・・。今でもよほど好きなこととか、ものすごく体調が良い時とかには、似たような感じになることもあります。あらためて考えてみたこともありませんでしたが、実は、心の奥に潜んでいる「私」は、その状態を求めてやまず、何か全身全霊を注いでしまうものは無いか、常に探しているような気がします。依存症だとか、自分探しだとか、そういったことは、みな、子どもの頃の完璧な「集中」の充実感を求めてのことなのかもしれません。

The quoted part is from:
The Effortless Effort of Creativity: Jane Hirshfield on Storytelling, the Art of Concentration, and Difficulty as a Consecrating Force of Creative Attention
https://www.brainpickings.org/2016/07/21/jane-hirshfield-concentration/

Wordsworth, "Ode" ("Intimations of Immortality") 1807 ver. (日本語訳) in 冨樫 剛『English Poetry in Japanese』
http://blog.goo.ne.jp/gtgsh/e/eb279c4b2cf701ed4bb95109a5752fba


2016年9月28日水曜日

小さなものたちに感謝

いつもポッドキャストの配信を楽しみにしている On BeingのブログにThree Gratitudesという詩が紹介されていました。キャリー・ニューカマー(Carrie Newcomer) というアーティストの書いた詩だということです。毎日眠る前に、今日感謝したいことを3つ挙げる。そういう詩です。


Every night before I go to sleep
I say out loud
Three things that I'm grateful for,
All the significant, insignificant
Extraordinary, ordinary stuff of my life.
(毎晩眠る前に、
声に出してみる
感謝しているものを3つ
生活の中の、ありとあらゆる、重大なこと、些細なこと、
特別なこと、普通のこと) 
(中略) 
Sunlight, and blueberries,
Good dogs and wool socks,
A fine rain,
A good friend,
Fresh basil and wild phlox,
(明るい陽射し、ブルーベリー
賢い犬、ウールのソックス
小ぬか雨
仲の良い友達
新鮮なバジル、野に咲くフロックス) 
My father's good health,
My daughter's new job,
The song that always makes me cry,
Always at the same part,
No matter how many times I hear it.
Decent coffee at the airport,
And your quiet breathing,
(おとうさんの健康
娘の新しい仕事
何度聞いても、いつも同じところで
涙が出てしまう歌
空港で飲めた、まともなコーヒー
それからあなたの静かな呼吸) 
(中略) 
My library card,
And that my car keeps running
Despite all the miles.
And after three things,
More often than not,
I get on a roll and I just keep on going,
I keep naming and listing,
(私の図書館のカード、
もう長距離を走っているのに、
走り続けてくれる私の車、
そして、3つ言ってしまっても
たいていいきおいづいて、とまらなくなって
まだまだリストは続いていく) 
Until I lie grinning,
Blankets pulled up to my chin,
Awash with wonder
At the sweetness of it all.
(やっとにっこりして横になる
毛布を首までひっぱって
不思議なきもちでいっぱいになる
そのすべてがなんてやさしいんだろうと)          

この詩を読むと、何だかすごくあたたかく、嬉しい気持ちになります。詩の中に挙げられているのは、ごく当り前の日常的なものがほとんどです。でも、どれもこれも、遠く離れた異国で、全く違った職業を持って生きている私の生活の中にもあって、同じように感謝したくなるものばかりだということが、すごく不思議です。世界中のどんな人も、陽射しや雨や犬や友達というようなものに取り囲まれて、1日を過ごしている。そして、そんなありふれた小さなものたちに支えられてこそ、私たちの生活は成り立っているのだということに、あらためて感動してしまいます。

今日という日も、一杯のコーヒーや、雨上がりの雲の切れ間、耳を傾ける音楽や、誰かにかけてもらった「ありがとう」という言葉に彩られた、やさしい1日でした。そういうものに感謝したいと思います。感謝するって、うれしい気持ちにさせてくれるものに対して持つものなんですね。

The quoted part is from
Three Gratitudes BY CARRIE NEWCOMER
http://www.onbeing.org/blog/carrie-newcomer-three-gratitudes/8902


2016年8月16日火曜日

ライフ イズ クリエイティブ

クリエイティブな人生、というと、アーティストだとか作家だとか、プロとして何か作品を産み出して生計を立てている人の人生のような気がしていました。でも、ある時、そうではない、ということに気付きました。ごくありふれた日常の生活の中で、自分はクリエイティビティを大いに発揮しているのだ、と思ったのです。

例えば、家の前にある花壇の世話をする。自分の花の趣味はもちろん、日照量とか手入れにかけられる時間とか、周囲の雰囲気などで、植える花の種類を選ぶ。どのくらいの株を、どの植物の隣にと考えながら、花壇をうめていく。そうすると、植物が想定外の育ち方をしたりして、それにどう対処するかを考えて・・・。家の仕事の一つとして、庭の世話をしているだけのつもりでも、花壇は、自分の知識も教養も、趣味も好みも、面倒くさがりな性分も、全てを映し出す作品になってしまっています。

おそらくは、人生の岐路に立った時に、大きな決断を下すのも、同じことなのでしょう。自分に向いている、自分らしい、興味がある、その方が有利だ、その方がうまくやれそうだ、等々。様々な要因が重なってある一つの選択が下されます。そうやって辿る道筋が、自分の一生という物語を紡いでいくのです。

イギリスの教育思想家のケン・ロビンソン(Ken Robinson)が、TEDトークの中で、人生が開花するための3つの原則がある、と語っています。1つ目は、人間の多様性、2つ目は好奇心、そして、3つ目はクリエイティビティだということです。


... And the third principle is this: that human life is inherently creative. It's why we all have different résumés. We create our lives, and we can recreate them as we go through them. It's the common currency of being a human being. It's why human culture is so interesting and diverse and dynamic. I mean, other animals may well have imaginations and creativity, but it's not so much in evidence, is it, as ours? I mean, you may have a dog. And your dog may get depressed. You know, but it doesn't listen to Radiohead, does it?
(そして、3つ目の原則は、人の人生というのは、本来クリエイティブなものだということです。だから、私たちは1人1人、違った履歴をもつようになるのです。我々は自分の人生を創っています。そして実際に生きることで、その人生を再現していくのです。それは、人間であることの共通の通貨のようなものです。だから、人間の文化は面白く、多様性に富んでいて、生き生きとした活力に満ちているのです。・・・というか、他の動物だって想像力とかクリエイティビティを持っているのかもしれません。でも、我々人間のように証拠がないですよね?犬を飼っておられますか。あなたの犬だって、落ち込むことがあるのかもしれない。でも、落ち込んだからといってレディオヘッドを聴いたりしないから。そうですよね?)
And sit staring out the window with a bottle of Jack Daniels.
(ジャック・ダニエルのボトルを片手に、窓から外を眺めたりとか。)
"Would you like to come for a walk?" "No, I'm fine."
(「散歩に行かないの?」「いや、いいよ」)
"You go. I'll wait. But take pictures."
(「いって来て。ここで待ってるから。後で写真見せてね」とか。)
We all create our own lives through this restless process of imagining alternatives and possibilities, and one of the roles of education is to awaken and develop these powers of creativity. Instead, what we have is a culture of standardization.
(私たちは皆、他の選択肢や可能性を常に想定しながら、人生を創り出して行くのです。教育の役割の一つは、この創造の力を目覚めさせ、開発することなのです。なのに、それをせずに、私たちは(テストなどで)標準化ばかりしているのです。) 
また、人生の岐路に立って下すような大きな選択が、私たちの人生を形作るばかりではなく、もっと些細な、例えば、誰かにメッセージを伝える走り書きに、どんな文字でどんな言葉を書くのか、スーパーでレジに差し出すカゴの中に、何を選んで入れているのか、というような、そんなことも、「私」を作り、私の人生を構築する一つ一つのパーツになっていくのです。そう考えると、毎日絶え間なく繰り返す、いろいろな小さなことが、とても大切なことのように思えてきます。その様々なことにワクワクしたり、うっとりしたり、満足したりできたらいいなあ。どれもがもっと豊かになるように、歳をとっても、まだまだ学んでいけたらいいなあ、と思います。人生に自分らしいクリエイティビティを発揮するほど、楽しいことってないんじゃないでしょうか。

The quoted part is from:
TED talk  How to Escape Education's Deth Valley? by Ken Robinson
https://www.ted.com/talks/ken_robinson_how_to_escape_education_s_death_valley?language=ja

2016年7月4日月曜日

日常の行為の中に込められるもの

 現在、一億総活躍社会では、活躍しようにも保育園に空きがなくて、身動きが取れないのが現状のようですが、たとえうまい具合に保育園を頼ることができたとしても、フルタイムで働きながら、子育てをするというのは、なかなか大変なことです。
 学生の頃から、自分は仕事をして家庭をもって子どもを育てる、そういう生涯を送るのだ、とそう信じていました。だから、フルタイムで働きつづけることも、育児休暇を取ることも、1年ほどで子どもを保育園に預けて仕事に復帰することも、それ以外の選択肢を探そうと思うことはなかったし、迷ったり悩んだりすることもありませんでした。また、当然のようにそうすることができたのは、この上ない幸運だったのは間違いありません。でも、同時にそれは、つらい立場に立つことの連続で、決して気持ちの良い体験でもありませんでした。とにかく、どんなに頑張っても、職場でも家庭でも想定する満足度の6割程度の働きしかできていないのが自分でわかります。どちらでも謝りっぱなし。自分の中では120%の奮闘ぶりなのに。

 アメリカ人のジャーナリスト、クリスタ・ティペット(Krista Tippett)のポッドキャスト、On Being のインタビューで、当時の気持ちをありありと思いだす言葉が流れてきました。シルヴィア・ボーステイン(Sylvia Boorstein)は、ユダヤ系の宗教家ですが、仏教を西洋文化に紹介した功績もある人、のようです。その方の言葉です。


"Spirituality doesn’t look like sitting down and meditating. Spirituality looks like folding the towels in a sweet way and talking kindly to the people in the family even though you’ve had a long day. Or even saying to them, “Listen, I’ve had such a long day, but it would be really wonderful if I could just fold these — I’d really love folding these towels quietly if you all are ready to go to bed without me,” or whatever it is. People often say to me, “I have so many things that take up my day. I don’t have time to take up a spiritual practice.” And the thing is, being a wise parent or a spiritual parent doesn’t take extra time. It’s enfolded into the act of parenting."
(「宗教心というのは、腰を下ろして瞑想する、というようなものではなさそうです。宗教心とは、たとえその日が長い1日だったとしても、丁寧にタオルをたたんだり、家族に優しく声をかける。そういったものだと思います。『ああ、今日は長い1日だった。でも、これだけたためるとうれしいんだけど。みんながお母さんがいなくてもちゃんとベッドに行けるんだったら、静かにタオルをたためるからうれしいな。』とか、そんな風にね。皆さん、私に、「1日にしなくてはならないことがたくさんありすぎて、神様に向き合うような時間をとることができないのです」とおっしゃいます。でも本当のところ、賢明な宗教心のある親になるのに、特別な時間を取る必要はないのです。そういうものは、子育ての行為そのものに含まれているものですから。」)
今ふりかえってみても、とにかく毎日しなくてはいけないことに追われていて、時間をとって子どもに教えなくてはならなかったこと、誰かに向き合わなくてはならなかったこと、などたくさんあったはずですが、何もできなかったという思いしかありません。でも、シルヴィア・ボーステインのこの言葉を聴いて、それでもよかったのかな、とちょっと安心しました。信仰心があるわけではないし、特に何かの思いを込めて何かをやっていたわけではないけれど、それでも、いつも音楽を聴いたりしながら、笑顔でタオルをたたんでいたような気はします。だったらもうそれで、十分だったのかもしれない、とそう思えました。

The quoted part is from:
Spirituality Is Enfolded into the Act of Living — Sylvia Boorstein
BY KRISTA TIPPETT On Being http://www.onbeing.org/blog/krista-tippett-spirituality-is-enfolded-into-the-act-of-living-sylvia-boorstein/8692

2016年5月23日月曜日

インスピレーションとアイディア クリス・アンダーソンのTEDトークから

 昔、昔、まだ、TVや電話が普及してしばらくたった頃、ドラえもんだかオバケのQ太郎だか、そういったマンガの中で、「未来には、テレビはテレビ電話になって、相手の顔を見ながら話ができるようになる」などと語られていたような、微かな記憶があります。そんなすごいことが本当にできるようになるのかな、と半信半疑でしたが、蓋を開けてみると、電話はTV電話に進化するどころか、一人一台の小型コンピュータの形に発展を遂げていました。それは、1本の線上をまっすぐに進んでいくような進化ではなく、複雑につながり合った道筋が、幾重にも重なりながら、世界を塗り替えてしまうような形の進化になっているような気がします。

 Brainpicking の記事で、TEDトークのキュレーター、Chris Anderson(クリス・アンダーソン)が、inspiration(インスピレーション)とidea(アイディア)について語っている内容が取り上げられていました。


"Inspiration can’t be performed. It’s an audience response to authenticity, courage, selfless work, and genuine wisdom."
(「インスピレーションというのは、意図して起こすことができるものではない。それは、「本物」や、勇気や無私無欲な仕事、或は真の知恵、といったものに対する受け手の反応です。」) 
"We’re wired to respond to each other’s vulnerability, honesty, and passion — provided we just get a chance to see it. Today, we have that chance… We are physically connected to each other like never before. Which means that our ability to share our best ideas with each other matters more than it ever has. The single greatest lesson I have learned from listening to TED Talks is this: The future is not yet written. We are all, collectively, in the process of writing it."
(「私たちは、お互いの弱さ、誠実さ、情熱、といったものに反応するようにできているのです。そういったものに出会う機会がある、というのが条件ですが。今日、私たちにはそういう機会があるのです。これまでには無い形で、物理的にお互いにつながっている。つまり、最高のアイディアをみんなで分かち合うことのできる力が、かつてよりも大切になっている、ということなのです。TEDトークを聞くことで、私が得た最も大きな、しかも唯一の学びはこういうことです。『未来はまだ、書き出されていない。私たちがみんなで、集まってそれを書いている最中なのだ』」) 
例えば、自分のことは度外視して、全身全霊を傾けて、夢中で 物事に取り組んでいる人の姿を目にした時、私たちは心を動かされます。或は、器用な人ならすぐに真似できてしまう程度のありきたりなやり方でなく、情報を集めてしっかりと学んだ上で、試行錯誤を重ねて本質を捉えている。そういった仕事に出会うと、この人は本物だ、と全幅の信頼を寄せてしまいます。そういう人やそういう仕事は、決して頻繁にではないけれど、確かに身近に、時々見かけることがあるものです。お料理上手、掃除魔、学校の先生、小児科の医師、パン屋さん、シェフ、 自動車の整備士さん・・・。以前なら、身内、ご近所、ごく親しい間で評判になるくらいのものだったのでしょうが、今は違う。その情報がインターネット上に発信さえされていれば、多くの人に感動を与え、注目を集めるチャンスにいつだって開かれている。名前や顔も出ないまま、しまいには著書まで出来てしまう例を、これまでにいくつも見てきました。
"What is an idea, anyway? You can think of it as a packet of information that helps you understand and navigate the world.
(「では、アイディアとは何なのでしょう?それは、わたしたちが世界を把握したり、進んで行ったりするのに役に立つ、ひとかたまりの情報、だと考えるとよいでしょう。 
[…] 
Your mind is teeming with ideas, and not just randomly — they’re carefully linked together. Collectively, they form an amazingly complex structure that is your personal worldview. It’s your brain’s operating system, it’s how you navigate the world, and it’s built out of millions of individual ideas."
あなたの頭の中は、アイディアにあふれています。しかも、ただでたらめに、ではありません。アイディアは注意深くお互いにつながりあっています。そして全て統合して、驚くほど複雑な構造を形作り、それがあなた個人の世界観でもあるのです。それは、あなたの脳のOSであり、ナビであり、そして、それは、何百万もの自分のアイディアから作られているのです。」)
ビッグネームがその名前の大きさで情報を発信する、というパターンはもちろん大いにありますが、それに加えて、名前の大きさの如何を問わず、アイディアそのものがものをいう時代を迎えているのだと思います。これまでは、マス・メディアがオピニオン・リーダーとしての役割を果たしながら、社会は動いてきたのだと思いますが、今、新聞、TV、雑誌、(付随する広告)、書籍、そういったものの役割や意味や形態が、急速に変わりつつあるのを感じます。少し前は無名の個人の発する情報は、かなり怪しかったり、手に取る価値の無いものも多かったものですが、それも、変わってきていていると思う。情報の発信者が情報の受け手に限りなく近いこと、細分化された物事のある1つのことだけに特化して長期に渡って取り組む、といったことが可能なこと、そのマニアックな内容を好む同志を世界中から探し出して共に語り合うことができること。アイディア本位で進んでいくことで、かつては不可能だった深まりと広がりが生まれていることを感じます。私たちは、こういったことを自然の成り行きとして一つ一つ普通に受け止めていますが、実際には私たちの価値観も、今、徐々に、でも、大きく塗り替えられつつあって、その結果、いずれそう遠くない将来、社会の枠組みみたいなものが根本から変わってしまっている、という事態になっているような気がします。 


The quoted part is from:
The Magic and Logic of Powerful Public Speaking: TED Curator Chris Anderson’s Field Guide to Giving a Great Talk
https://www.brainpickings.org/2016/05/05/ted-talks-book-chris-anderson/

2016年4月18日月曜日

外国語の海を渡る―ジュンパ・ラヒリのインタビュ-から―


ジュンパ・ラヒリが、ニューヨーク公共図書館 NYPLのポッドキャストのインタビューで、外国語について語っているのを耳にしました。Jumpa Lahiri(ジュンパ・ラヒリ)はロンドン生まれ、アメリカ育ち、インド系アメリカ人の作家です。第一作目の短編集"Interpreter of Maladies "(『病気の通訳』、日本語版の本のタイトル『停電の夜に』は、別の短編、A Temporary Matter"から取られたもの)は、日本では新潮クレストブックからだけでなく、新潮文庫からも出版されており、この作品で、ピューリッツァー・フィクション賞を受賞しています。

彼女は40代になって、自分の(特に言語的な)アイデンティティについて疑問をもつようになり、イタリア語を学び、それだけでなく、イタリアに渡ってローマで生活することにしたそうで、このインタビューで、イタリア語を習得することについて述べています。
"In a sense, language is the most intimate relationship of ours lives, at least, I think, for me. That is not to say I don't love deeply people and have profound relationships with them. But I think language is so much more powerful than we are, so to have a relationship with language is a very profound thing. To seek another language is so powerful and so humbling."
(ある意味、言語は、私たちの人生で最も親密な「関わり」だと思います。少なくとも私にとっては。人を深く愛していないとか、彼らと心からの関わりを持っていないとか、言っているわけではありません。でも、私は思うのですが、言語というのは、我々人間よりももっとずっと力強いものなので、言語と関わりを持つのは、ものすごく深いことなのです。二つ目の言語を追うのは、とても影響力が強く、自分に足りないものに気づかされる経験です。)


ローマでのある日、友人の家族と小型船での船旅を楽しむことになった時に、随行してもらった船長さんに、こう言われたのだそうです。
“Well, there’s one thing you have to know which is we don’t belong here, we are human beings and we don’t belong on the water and it’s dangerous and it can kill us and it’s not where we’re supposed to be and you have to know this and you have to respect that and you have to respect the sea, because it’s so much powerful than we are, and it really doesn’t like us, and yet we love it and we’re going to sail and we’re going to have a great week,” and we did. You know, and he said it in a much more profound, beautiful way (laughter) than I am, but I was really struck by what he said because I think it’s true, and I immediately thought of my relationship to Italian and I thought, “That’s Italian for me, I’m sailing through this language and it’s dangerous and I don’t belong in it and yet it’s this sort of sublime experience for me.”
(「さて、1つ知っておいてもらわないといけないことなんですが、それは、ここは本来の居場所ではない、ということです。ここ水の上は、我々人間の生きる場所ではないんですよ。だから、危険だし、死んでしまうことだってある。ここはいるはずのところではない、ってことをよく知っておかなくてはならないし、また、それを重く受け止めておかなくてはならないんです。海に敬意を払わなくては。随分大きく力を持っている相手で、しかも、本当のところ、こっちは疎まれているんだから。でも、こっちは愛してやまないから、出帆するし、間違いなく素晴らしい1週間になるはずですよ。」その通りでした。船長は、私なんかよりももっとずっと深くて、美しい言い方でそう言ったのです。私はもう、その言葉に衝撃を受けてしまって。だって、本当にそうだと思ったんです。そして、すぐに、私とイタリア語のことを思いました。「それって、私にとってのイタリア語だ。私はこの言語の海を渡っているところなんだ。危険だし、そこが自分の居場所ではない。でも、同じように素晴らしい体験なんだ、と。」)
ジュンパ・ラヒリのような母語に対する不安は、いささかも感じたことはありませんが、それでも、私も言語の海を渡る人生を生きている。私の人生もそういう人生であるのだ、と感慨深く思います。もちろん彼女のようなスケールの大きな人生ではなく、私の人生は、地球の片隅で、そっと生きている小さな人生ではありますが、でも、外国語の海が、自分の本来の場所の外側で、命が奪われてもおかしくないような危険な領域であることに、変わりはないはず。そして・・・、「こっちは疎まれて」いたのか、やっぱり。なんだかそれも納得。どうりでなかなか習得できないわけだ。それはそれで仕方がない。でも、この海が、違った視点で見る目を与えてくれ、力強い美しい言葉で鼓舞してくれ、様々な出会いをもたらして、この小さな人生を豊かなものにしてくれているのは間違いない。言葉に関わる人生で本当によかった。これからも、外国語の海の大きさを決して忘れないよう、敬意を払いつつ、しっかりと生きていきたいと思います。

The quoted part is from; The New York Public Library.
Podcast #102: Jhumpa Lahiri on Language and Disorderby Tracy O'Neill, Social Media Curator http://www.nypl.org/blog/2016/03/08/podcast-jhumpa-lahiri

2016年2月14日日曜日

Love Is a Learned, Emotional Reaction.

バレンタインデーが近づくと、「愛」について考えさせるような情報が、やはり巷にも増えてくるせいか、自分としても何となく「愛」について思いをはせてしまいます。そして目に留まったのは、 brainpickings で紹介されていた、心理学者の Barbara Fredrickson (バーバラ・フレデリクソン) のこの言葉です。
"Most of us continue to behave as though love is not learned but lies dormant in each human being and simply awaits some mystical age of awareness to emerge in full bloom. Many wait for this age forever. We seem to refuse to face the obvious fact that most of us spend our lives trying to find love, trying to live in it, and dying without ever truly discovering it."
(私たちのほとんどは、ずっと、愛情というものは、学習されるようなものではなく、一人一人の人間の内に眠っていて、何か神秘的なことが起こってそれが呼び覚まされ、やがて開花する時が来るのを待っているのだ、とそういう態度のままでいます。多くの人は、その時が来るのを永遠に待ち続けている。人生を、愛情を探して、愛情の中で生きようと努力し、とうとう本当に見つけることなく死んでいくのだという、明白な事実を拒んでいるかのようです。)
"Love is a learned, emotional reaction. It is a response to a learned group of stimuli and behaviors. Like all learned behavior, it is [affected] by the interaction of the learner with his environment, the person’s learning ability, and the type and strength of the reinforcers present; that is, which people respond, how they respond and to what degree they respond, to his expressed love."
(愛情というのは、学習することで身につく感情反応です。それは、学習されたひとまとまりの刺激と行動に対する反応です。学習して身につけるあらゆる行動同様に、それは、学習者の環境、能力、どんな繰り返しがどの程度あるか(つまり、自分の表現した愛情に対して、どういう人が、どんな風に、どの程度反応してくれるか)等との相互作用に大いに影響されます。)
え。さて、自分は「愛」を学習したことがあっただろうか。少なくとも、意識的には無いような気がします。百歩譲って無意識に学習をしてきたとして、あなたの学習の到達度はいかほどか、と問われたら、はなはだ自信はありません。
 そしていろいろな疑問も湧いてきます。その「愛」というのは、男女間の?家族とか、友人とか、果ては博愛とか、そういうものも含まれるのか。含まれるとすると、それぞれの「愛」は同じものなのか、違うものなのか。生きていく上で、「愛」は大切なものだということはわかっています。たとえ、「愛」の学習がこれまでに足りなかったとしても、では、「愛」を感じずに生きていけと言われると、それは厳しいことのように思えます。
 もらってばかりでは申し訳ない。自分からも差し出さないと、と思うものの、人に与えることの難しいこと。何をやっても間が悪いような気がするし、いらないかも、邪魔になるかも、かえって迷惑かも、と、用意しているもの(物であれ気持ちであれ)を、しまい込んだままにしてしまいがちです。時に、本当に親しい身内にさえそうしてしまう自分は、「愛」の偏差値は相当低いに違いない。さっと、タイミング良く、相手を幸せな気持ちにしてくれる人がたまにおられますが、一体どのようなしくみになっていて、どんな学習をつまれたのか、見当もつきません。
"To love without knowing how to love wounds the person we love. To know how to love someone, we have to understand them. To understand, we need to listen."
(愛し方を知らずに愛することは、愛する人を傷つける。誰かを愛する方法を知るためには、その人を理解しなくてはならない。理解するためには、耳を傾ける必要がある。)

これは、同じ brainpickings で紹介されていた、ベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハンの言葉です。愛し方、と思うと結局どうすればよいのかよくわからないけれど、よく相手を理解しなさい、ということなら、なんとなく手がかりがつかめるような気がします。
 もう、人生の折り返し地点を曲がってしまっているというのに、誰にも何も満足にしてあげることのできない不甲斐ない自分ですが、こうなったら、もう、ティク・ナット・ハン氏の言葉を全面的に信じて、何はともあれ学習を積んで、相手を理解することにかけては、他の追随を許さない、間違いなしの力をつけ、みんなにデクノボーと呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういう人に私はなりたい、と思います。

The quoted parts are from:
"The Science of Love: How Positivity Resonance Shapes the Way We Connect " in Brainpickingshttps://www.brainpickings.org/2013/01/28/love-2-0-barbara-fredrickson/
"How to Love: Legendary Zen Buddhist Teacher Thich Nhat Hanh on Mastering the Art of “Interbeing”"in Brainpickingshttps://www.brainpickings.org/2015/03/31/how-to-love-thich-nhat-hanh/


2016年1月31日日曜日

不満を抱えて創り出す―マーサ・グレアムの言葉から―

マーサ・グレアム(Martha Graham、1894-1991)はアメリカの舞踏家、振付師です。弟子のアグネス・デ=ミル(Agnes De Mille)が、彼女の著書『マーサ:マーサ・グレアムの人生と作品』(Martha: The Life and the Work of Martha Grahm)の中に、自分では不本意だった仕事が思わぬ大成功をおさめた後、割り切れない気持ちを抱えながらMarthaに会って、交わした言葉を綴っています。

Martha said to me, very quietly: “There is a vitality, a life force, an energy, a quickening that is translated through you into action, and because there is only one of you in all of time, this expression is unique. And if you block it, it will never exist through any other medium and it will be lost. The world will not have it. It is not your business to determine how good it is nor how valuable nor how it compares with other expressions. It is your business to keep it yours clearly and directly, to keep the channel open. You do not even have to believe in yourself or your work. You have to keep yourself open and aware to the urges that motivate you. Keep the channel open. As for you, Agnes, you have so far used about one-third of your talent.”
(マーサは私にこう言いました。とても穏やかな口調で。「活力、生命力、エネルギー、胎動、そういったものがあって、それが、あなたを通じて行動へと姿を変えます。「あなた」というのは、いついかなるときでも、唯一無二の存在なので、その表現も独自のものとなる。そして、もしもあなたがそれを阻めば、その表現が存在しうる手段は無くなり、それは、失われてしまう。世界にそれは存在しない、ということになってしまうのです。それが、どう優れているのか、価値があるのか、他の表現に匹敵するのか、など決めるのは、あなたではないのです。あなたにできるのは、ただ、あなたなりの表現というものを、そのままはっきりと自分のものとして保ち、外とのつながりに心を開いておくこと。自分自身や自分の仕事を信じる必要さえないのです。ただ、自分をオープンにして、あなたに力をくれる衝動に気付けばよい。外とのつながりに心を開いて。アグネス、あなたは、これまで才能の3分の1しか使っていないのです。」) 
“But,” I said, “when I see my work I take for granted what other people value in it. I see only its ineptitude, inorganic flaws, and crudities. I am not pleased or satisfied.”
(「でも、自分の作品を見ると、他の人がどう思うかが当然気になります。私には、愚かで欠点だらけで、粗削りなものにしか見えない。うれしくもないし、満足もしていません」) 
“No artist is pleased.”
(「アーティストは嬉しがったりしません」) 
“But then there is no satisfaction?”
(では、満足感はないのですか?」) 
“No satisfaction whatever at any time,” she cried out passionately. “There is only a queer divine dissatisfaction, a blessed unrest that keeps us marching and makes us more alive than the others.”
(「いつ何どきも満足感なんてありません。」マーサは一生懸命になって言いました。「いつも、奇妙な神様のお与えになる不満と、祝福してくださる不安があって、それが私たちをたえず前進させてくれるし、誰よりも生きていると実感させてくれるのです。」)

先人のおびただしい量の作品を、見て憧れて模倣して、その中から自分の心の琴線に触れるものが見出されていく。自分らしさを映しだすものがだんだん姿を現してくる。現実に私たちの目の前に、具体的な形で作品が差し出される前に、既に、アーティストの心のうちには、これから作り上げるものに対して確固たるイメージがあるし、ある一定の水準のようなものが想定されているのではないでしょうか。概念を具象化させるにあたって、その心の中のイメージに合わないものや、想定された水準に届かないものは、厳しく注意深く排除されていき、やがてそのアーティストだけが創り出すことのできる、作品たちが生まれてくる。

ミュージカル『オクラホマ!』が大きな成功を収めたにも関わらず、アグネスの心は満たされなかった、というエピソードから、アーティストは世間に作品が認められて、名声を得られることを、必ずしも目指しているのではない、ということを改めて思います。アーティスト達が、その筋の第一人者である一方、観衆のほとんどは素人なので、世間が評価するものとアーティストの目指すものが食い違うということは、よくあることだと思います。作り手側にしてみれば、いかに富や名声が得られようとも、自分のイメージに合わないものや、想定した水準以下のものを自分の作品として、世に送り出すわけにはいかない。そういうものなのでしょう。

そんなアグネスにマーサが与えた言葉は、つまるところ、評価というものに気を取られずに、自分の心の中にあるイメージを具現化することだけに集中するように、ということだったと思います。理屈抜きで自分を惹きつける、自分が憧れる自分なりの美しさを、目や耳で受け止められる形で、他者の前に差し出すこと。作品としてそれを創り出すアーティストはもちろんですが、アーティストとは呼ばれない私たちも、日々の生活の中で、有形無形の様々なものを生み出して生きているわけで、そのことを思えば、マーサの言葉は、誰の人生にも必要なことだと、言えるのかもしれません。

The quoted part is from: 
16 Elevating Resolutions for 2016 Inspired by Some of Humanity’s Greatest Minds;