学生時代、田辺聖子さんの著書を徹底して読んだ時期があります。1人暮らしをしていた頃で、休日ともなると、目覚めてベッドの中から起きだしもせずに、眼鏡をかけて本の続きを開く。お腹がすいたな、と思ったころに起きだして、適当に何か食べて雑用を済ませた後、近くの本屋に行き、新しい「田辺聖子の本」を仕入れてくる。お風呂に入って夕食を食べたら、早めにベッドに入って、新しい「田辺聖子の本」を読み始め、睡魔に襲われるまで夜更かしをして読む。・・・という調子で、ずーっとエンドレスに読み続けました。当時文庫として書店で手に入るものが、100冊前後あったでしょうか。全て読み尽くしたと思います。何を思ってそんな生活を送っていたのか。ひとえに楽しくてやっていた、としか言いようがありません。子供たちがゲームにはまっている状態と同じだったと思います。人間観察の視線の鋭さなど、内容的にはっと気づかされることも多々ありましたが、それより何より、ドライブのある文章の、文体にのる楽しさ。それだけに突き動かされるようにして、読み続けたと思います。味わうべきは文体にあり。このことを、とことん体験した時期だったと思います。
村上春樹さんはまだ若い高校時代に、トルーマン・カポーティの文章を読んで、世の中にこんなに美しい文章があるのか、と感動したそうです。へえ、と思って私も何冊か、手に取ってみたのですが、そこは哀しい外国語。意味はわかったとしても、田辺聖子の文体に、村上春樹の文体に、夢中になるあの楽しさは、英語の文章ではなかなか味わうことはできませんでした。
フォローしている The Paris Review 誌(The Paris Review@parisreviews) のツイートに、そのトルーマン・カポーティのインタビューの記事が紹介されていました。トルーマン・カポーティは、文体についてこう語っています。
INTERVIEWER:
Can a writer learn style?
(作家は文体を学習することができますか?)
CAPOTE:
No, I don’t think that style is consciously arrived at, any more than one arrives at the color of one’s eyes. After all, your style is you. At the end the personality of a writer has so much to do with the work. The personality has to be humanly there. Personality is a debased word, I know, but it’s what I mean. The writer’s individual humanity, his word or gesture toward the world, has to appear almost like a character that makes contact with the reader. If the personality is vague or confused or merely literary, ça ne va pas. Faulkner, McCullers—they project their personality at once.
(いや、文体は意図的に努力してそこにたどり着けるものではないと思う。 自分の目の色がその色なんだってことと同じだよ。 つまるところ、文体っていいうのは、その人そのものだからね。 しまいには、作家の人格というのは、 作品に大いにかかわることになる。人格というのは、 品の無い言葉だね。わかっているよ。でもぼくが言いたいのは、 そういうことなんだ。作家個人の人間性とか、 世の中に対するその人の言葉や姿勢とかが、ほとんど 性格のような感じで出てこないようでは嘘なんだよ。それで、 読者と関係を作っていくわけだから。もし、 人格がはっきりしなかったり、混乱していたり、 単に文学の上のことだったら?ソレハナイ。フォークナーだって、 マッカラーズだって。人格が、即、 浮かび上がっているじゃないか。)
INTERVIEWER:
It is interesting that your work has been so widely appreciated in France. Do you think style can be translated?
(カポーティさんの作品が、フランスで多く読まれているというのは、おもしろいですね。 文体というのは、翻訳が可能なものだと思われますか?)
CAPOTE:文体がその人そのもの、というのはよくわかる気がします。その人の見たもの、聴いたもの、信じるもの、あらゆる体験の全て。その人の持つテンポやリズム、息の長さ、その全てを投じて、文章というものは書かれ、文体が形づくられる。だからこそ、そこに夢中で飛び込む人を受け止めるほどの、包容力を持つのではないでしょうか。
Why not? Provided the author and the translator are artistic twins.
(もちろんだよ。作家と翻訳家が文芸の世界で双子だった場合、ということだよ。)
それにしても、いずれ、英語で書かれた文章でも、その文体を夢中になって楽しむことができるようになる、というのが私の悲願です。そうなった時には、田辺聖子や村上春樹のような、自分にとってかけがえのない文体を持つ著者と運命の出会いを果たし、その翻訳をしてみたい、というのも、私の数年来の夢です。そんな日がいつかやってくるといいな、とわくわく、きょろきょろして、毎日を過ごしています。
Truman Capote, The Art of Fiction No. 17, Interviewed by Pati Hill, in The Paris Review No. 16, Spring-Summer 1957 http://www.theparisreview.org/interviews/4867/the-art-of-fiction-no-17-truman-capote